聖なるもの、聖なる者(ὅσια<hosia>, Ὅσιόν<Hosion>)―使徒13:34, 35
【回復訳】 使徒13:34-35 使徒また、神がイエスを死人の中から復活させ、もはや朽ち果てることの中に戻らせることがないことについて、神はこのように言われました、『わたしは、ダビデのあの聖なるもの、信実なものを、あなたがたに与える』。このゆえに、神はまた他の詩篇で言っておられます、『あなたは、あなたの聖なる者が朽ち果てるのを見ることを許されない』。
他の日本語訳は「hosia」を「聖なる祝福」「聖なる恵み」(聖書協会共同訳は「聖なるもの」)と訳しています。 日本語訳聖書の比較はこちらのサイトから参照いただけます。
ギリシャ語
ὅτι δὲ ἀνέστησεν αὐτὸν ἐκ νεκρῶν μηκέτι μέλλοντα ὑποστρέφειν εἰς διαφθοράν, οὕτως εἴρηκεν ὅτι Δώσω ὑμῖν τὰ ὅσια Δαυεὶδ τὰ πιστά. διότι καὶ ἐν ἑτέρῳ λέγει Οὐ δώσεις τὸν Ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
hosios: righteous, pious, holy
Original Word: ὅσιος, ία, ιον
Part of Speech: Adjective
Transliteration: hosios
Phonetic Spelling: (hos'-ee-os)
Definition: righteous, pious, holy
Usage: holy, pious, godly, beloved of God.
解説
『ここの「あの聖なるもの」のギリシャ語は、複数形です。同じギリシャ語が次の節では「聖なる者」に使われていますが、単数形です。しかしながら、それは「聖」に対する通常の言葉ではありません。これは、ヘブル語の「ケセド(chesed)」のギリシャ語の等値語です。ケセドはイザヤ書第55章3節で、また歴代志下第6章42節、詩篇第89篇1節で、七十人訳でもキング・ジェームズ訳でも、「あわれみ」と訳されています。詩篇第89篇で1節の「あわれみ」(複数)は、89篇19節の「聖なる方」(単数)と同じ言葉です。この聖なる方はキリスト、ダビデの子であり、彼の中で神のあわれみは集中し、伝えられます。ですから、「ダビデのあの聖なるもの、信実なもの」は、復活したキリストを指しています。これは文脈によって、特に次の節の「あなたの聖なる者」によって、またイザヤ書第55章3節に続く節によって、十分に証明されます。』(回復訳聖書 使徒13:34フットノート1)
補足
ダビデのあの聖なるもの、信実なもの
第13章34節でパウロは、キリストの復活についてさらに言葉を語ります。「また、神がイエスを死人の中から復活させ、もはや朽ち果てることの中に戻らせることがないことについて、神はこのように言われました、『わたしは、ダビデのあの聖なるもの、信実なものを、あなたがたに与える』」。「ダビデのあの聖なるもの、信実なもの」という句は、新約聖書の翻訳者たちを悩ましてきました。33節と34節は復活したキリストに関してです。33節は言います、「すなわち、神は彼を復活させて、子孫であるわたしたちに、この約束を完全に成し遂げられました。それは詩篇第2篇にも、『あなたはわたしの子である。この日わたしはあなたを生んだ』と書き記されているとおりです」。すでに指摘したように、キリストの復活は、彼を神の長子として生み出す第二の誕生でした。神は彼を彼の民に与えると約束されました。この復活した方は、ダビデのあの聖なるもの、信実なものです。「ダビデのあの聖なるもの、信実なもの」という句は、キリストがダビデからであったことを示します。なぜなら、ダビデの子孫から、神はそのような方を復活させたからです。神にとって、復活したキリストは長子ですが、わたしたちにとって、彼は救い主です。さらに、彼は選ばれた人々にとって、神が与えられた大いなる賜物であり、この賜物が、「あの聖なるもの、信実なもの」と呼ばれています。
復活したキリスト
「あの聖なるもの、信実なもの」と訳されたギリシャ語は文字どおりには聖なる事柄(ギリシャ語「ホシオス(hosios)」、複数)、信実なもの、確実なものです。同じ言葉(ホシオス)が次の節では「聖なる者」に使われていますが、それは単数形です。しかし、それは聖に対する通常の言葉ではありません。通常の言葉は「ハギオス(hagios)」です。「ホシオス」は、ヘブル語の「ケセド(chesed)」のギリシャ語の等値語です。「ケセド」はイザヤ書第55章3節で、また歴代志下第6章42節、詩篇第89篇1節で、七十人訳でもキング・ジェームズ訳でも、「あわれみ」と訳されています。詩篇第89篇で1節の「ケセド」、複数形のあわれみは、19節の単数形の聖なる方と同じ言葉です。この聖なる方はキリスト、ダビデの子であり、彼の中で神のあわれみは集中し、伝えられます。ですから、ダビデのあの聖なるもの、信実なものは、復活したキリストを指しています。これは文脈によって、特に次の節(使徒13:35)の「あなたの聖なる者」によって、またイザヤ書第55章3節に続く節によって、十分に証明されます。
第13章33節と34節のパウロの思想はとても深いのです。復活したキリストは、第二の誕生、復活を通して生み出された神の長子であり、あの聖なるもの、信実なものです。34節の「信実な」という言葉は、信頼に値することを意味します。復活したキリストは、神がわたしたちに与えられる聖なる、また信頼に値するものです。ここでパウロが示しているのは、復活したキリストが、わたしたちに神の救いをもたらすわたしたちの救い主であるだけでなく、神の長子だけでもないということです。この復活したキリストはまた、神がわたしたちに与えられた賜物としてのあの聖なるもの、信実なものです。
キリストがわたしたちの救い主であることを、わたしたちが理解するのは容易です。キリストが神の長子であることを理解するのはより困難です。しかし復活したキリストが聖なるもの、信頼に値するものであることを理解するのはとても困難です。わたしたちの多くは、復活したキリストが、神によってわたしたちに与えられた聖なるもの、信頼に値するものであることを、決して教えられたことがありません。あの聖なるもの、信実なものは、広い範囲、「救い主」や「長子」の称号が及ぶよりもはるかに広い範囲に及びます。「あの聖なるもの信実なもの」という句は、実は神聖な称号ミキリストの称号です」これらの節で、キリストは聖なるもの、信頼に値するものと呼ばれています。神がダビデの子孫から復活させた救い主は、聖なるもの、信頼に値するものとなられました。
キリストが何であるかのすべての面
これらの聖なるもの信頼に値するものとは何でしょうか?それらはキリストが何であるかのすべての面です。新約によれば、キリストは命、光、恵み、義、聖、聖別、義認です。彼はまた命のパンと生ける水です。さらに、聖なるもの、信頼に値するものは、コリント人への第一の手紙で明らかにされているキリストのすべての面を含みます。すなわち力、知恵、義、聖別、晴い、栄光、神の深み、神の建造の唯一の土台、過越、パン種のないパン、霊の食物、霊の飲み物、霊の岩、かしら、からだ、初穂、第二の人、最後のアダムです。わたしたちはヨハネによる福音書で、キリストのさらに多くの面を見ます。例えば、牧者や牧場などです。おお、キリストはわたしたちにとって、何と聖なるもの、信頼に値するものでしょう!復活した方として、彼は長子、救い主、すべての聖なるもの、信頼に値するものです。
わたしたちへのあわれみとしてのキリスト
旧約で聖なるもの。信実なものは、あわれみと考えられています霊イザヤ書第55章3節は、ダビデヘの確かなあわれみ」について語っています。歴代志下第6章42節は、「ダビデに対する……慈愛」、主のしもべを述べており詩篇第89篇1節は「わたしはエホバの慈愛を永遠に歌います」と言います。あわれみとは何であるか、あなたは知っているでしょうか?あわれみは愛と恵みの両方を暗示しますが、愛よりさらに遠く届きます。愛と恵みが届くことができない所に、あわれみは届くことができます。
すべてのあの聖なるもの、信実なものとは、わたしたちへのあわれみとしてのキリストご自身です。命はあわれみであり、光もあわれみです。同じように、義、聖、義認、聖別もあわれみです。ヨハネによる福音書第十章には門、牧場、牧者があり、これらすべてはあわれみです。これらのあわれみのすべての面を数えてみてください。あなたは時間をかけて数えるなら、あわれみの長いリストを持つでしょう。
妻に対する夫の愛や夫に対する妻の服従は、わたしたちに対するあわれみとしてのキリストです。キリストの中で、わたしが妻を愛するなら、これは確かにあわれみです。彼女に対するわたしの愛は、わたしに対するあわれみとしてのキリストご自身です。同じように、ある姉妹が㈲キリストの中で夫に服従するなら、それもあわれみです。彼女の服従は、彼女に対するあわれみとしてのキリストご自身です。
わたしは、年ごとに神の言葉を語るのは確かにあわれみであると、証しすることができます。わたしが尽きることなく言葉を語ることができるとは、何というあわれみでしょう。過去わたしは毎年フィリピンで数か月過ごして言葉を供給しました。わたしを接待した年長の姉妹は、わたしが常に新しいことを言っていることで大いに驚いていました。彼女は、何年か後にはもう供給するものがないと思っていました。
彼女はある日、特別集会の後で言いました、「わたしは今まで、あなたが尽きて何も言うことがなくなると思っていました。しかしあなたの務めは今、以前にもまして新鮮で豊富です。あなたはどこで、これらすべての語るものを得るのですか?」わたしが今日この質問を受けるならわたしが言葉を語ることは、わたしに対するあわれみとしてのキリストであると言うでしょう。これはわたしの能力や賜物の事柄ではありません。それは完全にあわれみの事柄です。
わたしが神の言葉を語ることはあわれみであるだけでなく、愛する救い主がわたしの語ることでさえあります。わたしの語ることはキリストであり、わたしにとってこのキリストを語ることはあわれみです。
わたしは優れた学位を持っていませんし、わたしの語りかけは雄弁ではありません。それにもかかわらず、この語ることはキリストに満ちています。これは完全に、神の言葉を語ることで、キリストがわたしに対してあわれみであることによります。
パウロによって宣べ伝えられたキリスト
わたしたちはみな復活したキリストが神の長子救い主、ダビデのあの聖なるもの信実なものであることを見る必要があります。すべての真のクリスチャンは、キリストが神のひとり子であることを知っており、またある人たちは、彼が神の長子であることを認識しているでしょう。しかしあなたはかって、復活したキリストが、すべてを含む賜物として神がわたしたちに与えられたあわれみとしての、すべての聖なるもの、信頼に値するものであるということを聞いたことがあるでしょうか?わたしたちは決してこれを聞いたことがないかもしれませんが、これは使徒行伝第13章でパウロが宣べ伝えたキリストでした。パウロが福音メッセージの中で、旧約からキリストを宣べ伝えただけでなく、復活したキリストを聖なるもの、信頼に値するものとして宣べ伝えたことを見て、わたしはとても幸いです。実際、パウロがここの福音の宣べ伝えで告げ知らせたことは、その説明のために彼が書いたすべての書簡を必要とするのです。ですから、あなたは聖なるもの、信頼に値するものとしてのキリストについてさらに見たいなら、パウロの十四書簡を学ぶ必要があります。
パウロは彼の宣べ伝えの中で、今日わたしたちが福音の宣べ伝えのときに従うべき卓越した模範を設定しました。パウロのように、わたしたちはキリストを豊富な引き上げられた方法で宣べ伝える必要があり第13章35節から37節でパウロは続けます、「このゆえに、神はまた他の詩篇で言っておられます、『あなたは、あなたの聖なる者が朽ち果てるのを見ることを許されない』。さて、ダビデは神のみこころによって彼自身の世代に仕え、眠りにつき、彼の父祖と共に葬られて、朽ち果てました。ところが、神が復活させた方は、朽ち果てるのを見ることがありませんでした」。36節の「仕えた」という言葉は、ダビデの王としての支配が神の協議による彼の時代への奉仕であったことを示します。「葬られた」と訳されたギリシャ語は、文字どおりには、「に加えられた」を意味します。使徒行伝第13章30節にあるように、パウロは37節で再び、神が人なるイエスを復活させた事実を強調します。
(新約ライフスタディ使徒行伝(二)56-62ページ)
さらに読むように:新約ライフスタディ使徒行伝(二)第三八編 小アジアとヨーロッパにおけるパウロの一行の務めを通しての増殖(四)