すべてを含むキリスト(9)どのようにしてその地を所有するか(1)― 小羊、マナ、箱、幕屋によって

第9章 どのようにしてその地を所有するか(1)― 小羊、マナ、箱、幕屋によって

どのようにしてそこに入って享受するかを見なければならない

 キリストはわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ることを願われます。そしてわたしたちは力に満たされて、すべての聖徒たちと共に、キリストの無限の広大さを理解することによって会得し、獲得します(エペソ3:17-18)。
 いったん幕屋が建て上げられると、主の栄光が直ちにそれを満たしました。主の栄光は、人の目の前に現された主の臨在です。人の目、イスラエルの子たちの目はその時、栄光の中の神の臨在を見ました(出33:14-15.申12:10.出40:17、21、34-35)。
 今わたしたちは、カナンの地を所有する方法を見なければなりません。わたしたちはどのようにしてそこに入って享受するかを見なければなりません。

団体の事柄

 まず、この地を所有するのは個人の事柄ではありません。どの人も単独で所有することは絶対に不可能です。これはからだの事柄です。それはすべての聖徒たちと共に会得されるべきです。キリストはあまりにも大きいのです。彼の広大さは無限で、彼の豊富は計り知れません。この原則は主によって堅く確立されています。良き地に入ってそれを占有することは個人のためではなく、団体のためです。主は決してイスラエルの子たちに一人ずつ徐々に、単独で、個人的にヨルダンを渡ってその地に入るようにと求められませんでした。一人が今月に入り、別の一人が翌月に入り、さらに別の一人がその次の月に入ることは、決して神の思いではありませんでした。これは不可能であり、神聖な原則に反しています。それは団体によって所有されなければなりません。それは個人的にではなく、団体的に入らなければなりません。

小羊

 当初、イスラエルの民は過越の小羊を享受しました(出エ第12章)。それはキリストの予表でした(Ⅰコリント5:7)。小羊はキリストであり、その地もキリストです。そこで、一見して、ふたりのキリスト、より小さいキリストとより大きいキリスト、過越の小羊のような小さいキリストと、カナンの地のような大きいキリストがあります。
 キリストはわたしたちの贖いのための小羊です。わたしたちはまず彼によって贖われなければなりません。こうしてはじめて、すべてを含む方としての彼を獲得することができます。わたしたちは彼を過越の小羊として受け入れなければなりません。これが、わたしたちがカナンの地に入るために始めなければならない場所です。わたしたちは過越を持たなければなりません。わたしたちはキリストを神の小羊として経験しなければなりません。「見よ、神の小羊」が、ヨハネによる福音書の初めにありますが(1:29)、その書の結びで、キリストは彼の弟子たちによって所有される無限の方です。
 過越には小羊だけでなく、またパン種のないパンと苦菜もあります(出12:8)。ここに再び二種類の命があります。小羊は動物の命に属し、パン種のないパンと苦菜は植物の命に属します。ヨハネによる福音書第6章で、主イエスはこの二つの命を一つに組み合わされました。彼は、「わたしは命のパンである」(35節)と言われました。パンは、小麦か大麦でできたもの、植物の命に属するものです。主は宣言されました、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ.……わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物である」(54-55節)。言い換えれば、命のパンは彼の肉です。パンは植物の命であり、肉は動物の命です。そしてこの章で主ご自身がこの二つを共に結び付けておられます。わたしたちはキリストを、生む力、増殖する強さのある贖う小羊として享受することによって、始めなければなりません。わたしたちは過越の小羊を、パン種のないパンと苦菜と共に取らなければなりません。

マナ

 わたしたちは彼を小羊として享受した後、続けて彼をマナ、すなわち日ごとの食物として享受します。
 マナはある種の実のようであり、その味は新鮮な油と蜜のようでした(民11:7-9.出16:31)。ですから、二つの命が共にミングリングされています。マナの外観はブドラクのようでした。ブドラクの正しい意味は真珠です。啓示録第21章で、真珠が神の建造の構成要素の一つであることを見ます。ですから、マナは真珠のように、神の建造のための材料として造り変えられたものを予表します。ブドラクは創世記第2章で使われている言葉です。その箇所で命の木が出てきて、また川があり、その流れにはいくつかの尊い材料があり、その一つがブドラクです。わたしたちは命の木を取って命の水を飲むとき、真珠、すなわち神の建造のための造り変えられた材料が生み出されます。ですからマナは、このすべての性質(植物の命の性質、動物の命の性質、造り変えられた命の性質)すべてを伴う物質です。

 キリストを享受することは、過越の小羊から開始して、天からのマナをもって日ごとに継続しますが、わたしたちは前進して彼を箱、すなわち幕屋に納められ、覆われた箱として経験しなければなりません(出25:10-22)。箱は神の証しです。神の証しはまさに神の現れ、神の表現です。箱の中には十戒を伴う板がありました。
 わたしたちは神を、十戒によって知ります。ここに「十の言葉」(出34:28のフットノート)があって、神の描写を与えています。彼はねたむ神、聖なる神、愛の神、義の神、信実な神です。十戒は、隠れた神の描写、表現、現れです。
 これらの十戒は箱の中へと置かれました。これは、神がご自身をキリストの中へと置かれたことを予表します。十戒は神の証しであり、証しの箱はキリストです。ですから、神の豊満はキリストの中に住んでいます。
 箱は明らかに、二つの性質を持つキリストの予表です。それは木で造られ、金で覆われていました。木は人の性質であり、金は神聖な性質です。それは肉体の中で神聖な性質とミングリングされたキリストの絵です。彼は人の性質を持ち、同時に神の性質を持っておられます(人の性質と神聖な性質)。彼は箱ですが、彼の内側は神ご自身です。十戒が箱の中へと入れられたように、神であるすべてがキリストの中へと入れられました。箱が「証しの箱」と呼ばれたように、キリストは神の現れまた証しです。

幕屋

 この箱は幕屋の内側に納められています。十戒が箱の中に納められており、そして箱は幕屋の内側に納められています(出40:20-21)。幕屋は箱の拡大、箱の増し加わりです。箱は木で造られ、金で覆われており、幕屋の大部分は同じ材料でできています。すなわち金で覆われた木です(出26:15-30)。ですから、幕屋は箱の拡大です。箱が拡大されて幕屋になります。幕屋は同じ様式で、また同じ材料で造られており、さらに多くのキリストで構成され、さらに多くのキリストを内側に含んでいます。
 幕屋の上に四層のおおいがありました(出26:1-14)。これは、キリストが被造物の一つになられたことを意味します。なぜなら四は被造物を表徴する数であるからです。この四層のおおいの最も外側のものはじゅごんの皮で、風、雨、太陽の熱に対する強力な保護です。じゅごんの皮の下に赤く染めた雄羊の皮があり、それはキリストがわたしたちの罪のために死んで血を流されたことを表徴します。そしてその下にやぎの毛の幕があり、それはキリストがわたしたちのために罪とされたことを表徴します。最も内側のおおいは亜麻布でできていて、とても美しく、とても良く、栄光に満ちており、そこにケルビムが織り出されています。このすべてのおおいは意義に満ちており、多くの説明を必要とします。それらはすべてキリストと関係があります。
 あなたは内側から、彼の栄光を見ます。外側からは、彼の低さ、彼のへりくだり、彼の単純さを見ます。あなたは彼の強さと彼の忍耐力を見ますが、麗しさはありません。これがイエス、人に軽べつされた、低い人です。しかし内側で彼は栄光のキリストです。
 わたしたちはそのようなキリストで覆われています! 幕屋の寸法によれば、おおいを形成するのに十枚の幕が必要とされます。ですから、最も内側の、細糸の亜麻布のおおいは十枚の幕でできていました。しかしやぎの毛のおおいは十一枚の幕でできていました。それは五プラス五ではなく、五プラス六であり、六は人を指し、罪を含みます。こうして、それは、キリストがわたしたちのために罪とされたことを表徴します。最も内側の層は栄光のキリストです。第二は、わたしたちのために罪とされたキリストです。第三は、死んで血を流したキリストです。第四の最も外側の層は、へりくだって、低い人になられたキリストです。このキリスト、この四重のキリストがわたしたちを覆っています。何というおおい、何という保護、何という安全保障でしょう!
 この幕屋の中で、キリストはとても多くの枠板と結合されています。わたしたちは木の枠板、人の肢体です。あなたは一つの枠板であり、わたしはもう一つの枠板です。箱はそのような幕屋に納められており、幕屋は、わたしたちと結合され、そしてわたしたちすべてを神聖な性質の中で結合しているキリストです。それは、すべての枠板が金で結合されていたようにです。少なくとも四十八枚の枠板があり、すべて金で覆われ、金の環と横木で結合されていました(出26:26-29)。もしわたしたちが金を取り除いたなら、四十八枚の枠板はばらばらになります。一つも結合されないでしょう。わたしたちは肉の中で結合されるのではなく、決してそのように結合されることはできません。神聖な性質がわたしたちを結合します。金が結合するものです。金はわたしたちの間の一です。

(「すべてを含むキリスト」、第 9 章より抜粋)


JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。

さらにお読みください:出エ第12章と15節のフットノート2.16:31とフットノート1.25:10-22と10節のフットノート3.第40章と3節のフットノート1

出エ第12章と15節のフットノート2
出エ第12章 さて、エホバはエジプトの地でモーセとアロンに語って言われた、「この月はあなたがたにとって月々の始まりとなる.それは一年の最初の月としなければならない。イスラエルの全集団に語って言いなさい、『この月の十日に、各自は父祖の家ごとに小羊一頭を、すなわち一つの家族のために小羊一頭を取らなければならない。もし、一つの家族が小羊一頭分には少なすぎるなら、その人と彼の家のすぐ隣の人が、人数に応じて一頭を取り、各自が食べる分量に応じてその小羊を分けなければならない。あなたがたの小羊は、傷のない、一歳の雄でなければならない.あなたがたはそれを羊またはやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日まで、それを保っておかなければならない.そしてイスラエルの集団の全会衆は、夕暮れにそれをほふらなければならない。彼らはその血から取り、それを小羊を食べる家の二本の門柱とかもいに付けなければならない。彼らは、その夜、その肉を火で焼いて食べ、それをパン種のないパンと苦菜と共に食べなければならない。それを生のままで食べたり、あるいは水で煮て食べたりしてはならない.その頭を足と内臓と共に火で焼かなければならない。それを、朝まで残してはならない.朝まで残したものはどれも、火で焼かなければならない。あなたがたはそれを、このように食べなければならない.すなわち、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持ち、急いで食べなければならない。これはエホバの過越である。わたしはその夜、エジプトの地を行き巡り、人も獣も、エジプトの地のすべての初子を打つ。またエジプトのすべての神々に対して裁きを執行する。わたしはエホバである。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためのしるしとなる.わたしはその血を見て、あなたがたを過ぎ越す.わたしがエジプトの地を打つとき、災害があなたがたに臨んであなたがたを滅ぼすことはない。この日は、あなたがたにとって記念となる.あなたがたはエホバへの祭りとして、これを守らなければならない.あなたがたは代々にわたって永遠のおきてとして、その祭りを守らなければならない。七日間、あなたがたはパン種のないパンを食べなければならない.その第一日に、あなたがたの家からパン種を取り除かなければならない.第一日から第七日までに、パン種のあるものを食べる者はだれでも、その人はイスラエルから断たれるからである。また、第一日に、あなたがたは召集聖会を開き、第七日にも召集聖会を開かなければならない。その間、何の仕事もしてはならない.ただし、各自が食べるものを用意することだけは、行なうことができる。あなたがたは、パン種のないパンの祭りを守らなければならない.なぜなら、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍隊を、エジプトの地から連れ出したからである.だから、あなたがたはこの日を守り、代々にわたって永遠のおきてとしなければならない。最初の月の十四日の夕方に、パン種のないパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで食べなければならない。七日間は、あなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のあるものを食べる者は、寄留者であれ、この地に生まれた者であれ、その人はイスラエルの集団から断たれるからである。あなたがたは、パン種のあるものを何も食べてはならない.あなたがたが住む所ではどこででも、パン種のないパンを食べなければならない』」。そこで、モーセはイスラエルのすべての長老を召して言った、「あなたがたの家族ごとに小羊を引き出して取り、この過越の小羊をほふりなさい。また、ヒソプ一束を取って、鉢の中の血に浸し、鉢の中の血を、かもいと二本の門柱に付けなさい.あなたがたのだれも、朝まで家の戸口の外に出てはならない。なぜなら、エホバが行き巡ってエジプト人を撃たれるからである.エホバはかもいと二本の門柱にある血を見るとき、その戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入ってあなたがたを撃つことがないようにされる。あなたがたはこの事を、あなたがたとあなたがたの子たちのためのおきてとして、永遠に守らなければならない。また、エホバが約束されたように、あなたがたに与えてくださる地に入る時、あなたがたはこの奉仕を守らなければならない。あなたがたの子供たちが、『この奉仕はあなたがたにとって何を意味するのですか?』と言うなら、あなたがたはこう言わなければならない、『それはエホバへの過越の犠牲である.彼はエジプト人を撃ってわたしたちの家を救ってくださった時、エジプトにいたイスラエルの子たちの家を過ぎ越されたのだ』」。すると、民はひれ伏して礼拝した。こうして、イスラエルの子たちは行って、そのように行なった.エホバがモーセとアロンに命じられたとおりに、彼らは行なった。真夜中に、エホバはエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、牢獄にいる捕虜の初子に至るまで打ち、また、すべての家畜の初子をも打たれた。その夜、パロと、彼のすべての家臣、すべてのエジプト人が起き上がった.エジプトに激しい叫びがあった.それは、死人のない家がなかったからである。その夜、パロはモーセとアロンを呼んで言った、「おまえたちもイスラエルの子たちも立ち上がって、わたしの民の中から出て行け.おまえたちが言ったとおり、行ってエホバに仕えよ。おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて行け.そして行って、わたしのためにも祝福せよ」。エジプト人は民を強いて、急いでその地から去らせた.彼らが、「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。そこで、民はパン種を入れる前の練り粉を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。イスラエルの子たちはモーセの言葉のとおりに行ない、エジプト人に銀の器と金の小物と衣服を求めた。エホバは、民に対してエジプト人の目に好意を持つようにされ、民が求めるものをエジプト人が与えるようにされた。こうして、彼らはエジプト人の財物を奪い取った。イスラエルの子たちは、ラメセスからスコテに向かって出立した.子供を除いて、徒歩の男子が約六十万人であった。また、入り混じった人たち、羊の群れや牛の群れ、非常に多くの家畜も、彼らと共に上って行った。彼らはエジプトから持って来た練り粉を焼いて、パン種のないパンを作った.それにパン種がなかったのは、彼らがエジプトから追い出され、ぐずぐずすることができず、また何の食物の準備もなかったからである。イスラエルの子たちがエジプトに住んでいた寄留の期間は、四百三十年であった。四百三十年の終わりの、まさにその日に、エホバの全軍はエジプトの地から出て行った。この夜、エホバは見張りをして、彼らをエジプトの地から連れ出された。その夜は、イスラエルの子たちすべてが代々にわたって、エホバのために見張りをする夜である。それから、エホバはモーセとアロンに言われた、「過越のおきては次のとおりである.外国人はだれも、それを食べてはならない。しかしながら、銀で買われたどの人のしもべも、あなたが彼に割礼したなら、それを食べることができる。寄留者と雇われたしもべは、それを食べてはならない。それは一つの家の中で食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない.またその骨を一本も砕いてはならない。イスラエルの全集団は、それを守らなければならない。しかし、もし他国人があなたがたの間に寄留していて、エホバに対して過越を守ろうとするなら、彼のすべての男子が割礼されるようにし、こうして、近づいてそれを守らせなければならない。彼はこの地に生まれた者のようになる。しかし無割礼の者はだれも、それを食べてはならない。この国に生まれた者にも、あなたがたの間に寄留している他国人にも、同一の律法である」。イスラエルの子たちはみなそのように行なった.エホバがモーセとアロンに命じられたとおりに彼らは行なった。まさにその日、エホバはイスラエルの子たちを、彼らの軍隊ごとにエジプトの地から連れ出された。

12:15フットノート2 過越の祭りで、小羊はパン種のないパンと共に食べられました(8節とフットノート2)。過越の継続において、パン種のないパンを七日間(完全な行程の時間)食べることは、わたしたちのクリスチャン生活全体が、わたしたちがキリストを受け入れて救われた時から、あらゆる罪深い事物を除き去ることによって、わたしたちの享受を持続すべきであることを表徴します。パン種のないパンの祭りの七日間で、家にパン種があってはならず(19節)、パン種はイスラエルの民の間に見られてはなりませんでした(13:7)。これは、わたしたちに全く罪がないのは不可能であっても、見られるどんな罪も除き去らなければならないこと、すなわち、わたしたちが気づく罪を放棄しなければならないことを表徴します(参照、ヘブル12:1)。現された罪を対処することは、パン種のないパンの祭りを守ることです(Ⅰコリント5:7-8)。暴露された罪をいったん容認するなら、わたしたちは神の民の交わりの享受を失うでしょう(19節.Ⅰコリント5:13)。罪を除き去る唯一の道は、パン種のないパンで表徴される、十字架につけられ、復活した、罪のない命としてのキリストを、日ごとに食べることです。

出エ16:31とフットノート1
出エ16:31 イスラエルの家は、それの名をマナと呼んだ.それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れて作られた極薄のパンのようであった。

16:31フットノート1 マナの特徴は、神の民の天的食物としてのキリストの特徴を描写します。マナが細かかったことは(14節)、キリストが均質で均衡がとれ、十分に小さくなって、わたしたちが食べることができることを示します。丸いとは(14節)、わたしたちの食物として、キリストが永遠で、完全で、満ち満ちており、不足や欠陥がないことを示します。白いとは(31節)、キリストが清く純粋で、何の混合もないことを見せています。霜のようであるとは(14節)、わたしたちの天的食物としてのキリストが、わたしたちをさわやかにし新鮮にするだけでなく、わたしたちの内側で消極的なものを殺すことを表徴します。コエンドロの種のようであるとは(31節)、キリストが命に満ち、わたしたちの中で成長して増殖することを示します。固いのは(人々が「二つのひきうすでひくか、うすでつくかして、鍋で煮」るという事実で暗示される―民11:8)、わたしたちがマナとしてのキリストを集めた後、日常生活の状況と環境の中で彼を「ひき、つき、煮」ることによって、彼を食べる備えをしなければならないことを表徴します。外観がブドラクのようであるとは(民11:7)、キリストの明るく透明であることを示します。その味は油で焼いた平らなパンの味のようであったとは(民11:8)、キリストの味わいに聖霊のかぐわしさがあることを表徴します。その味は蜜を入れて作られた極薄のパンのようであったことは(31節)、キリストの味わいの甘さを表徴します。平らなパンを作るのに良いことは(民11:8)、キリストがきめの細かい平らなパンのように、養いが豊富であることを示します。

出エ25:10-22と10節のフットノート3
出エ25:10-22 また、彼らはアカシア材の箱を作らなければならない.その長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半である。あなたはそれを純金で覆わなければならない.すなわち内側と外側を覆い、その周りには金の飾り縁を作らなければならない。また、箱のために四つの金の環を鋳て作り、その四つの足の部分に取り付けなければならない.すなわち、二つの環が一方の側にあり、二つの環がもう一方の側にあるようにしなければならない。また、アカシア材の竿を作り、それを金で覆わなければならない。その竿を箱の両側にある環に通し、それをもって箱を担がなければならない。竿は箱の環に差して、それを外してはならない。その箱の中に、わたしがあなたに与える証しの板を入れなければならない。また、純金の罪を覆う蓋を作らなければならない.その長さは二キュビト半、幅は一キュビト半である。また、二つの金のケルビムを作らなければならない.打ち物作りで、罪を覆う蓋の両端に作らなければならない。一つのケルブを一つの端に、一つのケルブをもう一つの端に作り、罪を覆う蓋の一部として、ケルビムをそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上に広げて、その翼で罪を覆う蓋を覆い、顔を互いに向かい合わせて、ケルビムの顔が罪を覆う蓋に向かうようにしなければならない。また、罪を覆う蓋を箱の上、その上に載せ、箱の中に、わたしが与える証しの板を入れなければならない。わたしはそこであなたと会い、罪を覆う蓋の上から、すなわち証しの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの子たちに対してあなたに命じるすべてのことについて、あなたと語る。

25:10フットノート3 契約の箱の寸法は、神の建造の数である三と五の数の半分です(参照、創6:15のフットノート2)。これは、契約の箱が証しであり、さらに半分があって全体的な単位、満ち満ちた証しとなる必要があることを表徴します(申17:6.19:15.マタイ18:16.19:5-6前半)。これは、契約の箱によって予表されるキリストが、彼の配偶者、彼の花嫁としての召会を必要とし、こうして人性における満ち満ちた証しとなることを暗示します(エペソ5:22-32.3:21とフットノート)。

出エ第40章と3節のフットノート1
出エ第40章 次いで、エホバはモーセに語って言われた、「第一の月の一日に、あなたは集会の天幕である幕屋を建て上げなければならない。また、あなたは証しの箱をそこに置き、垂れ幕でその箱を隔てなければならない。また、机を携え入れて、並べるべきものを並べ、燭台を携え入れて、そのともし火をともさなければならない。あなたは香のための金の祭壇を証しの箱の前に置き、幕屋の入り口のとばりをかけなければならない。また、全焼のささげ物の祭壇を、集会の天幕である幕屋の入り口の前に据えなければならない。また、集会の天幕と祭壇の間に洗盤を据えて、そこに水を入れなければならない。また、周り全体に庭を設け、庭の門のとばりをかけなければならない。あなたは塗り油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油を塗り、それとそのすべての器具を聖別しなければならない.こうして、それは聖なるものとなる。また、全焼のささげ物の祭壇と、そのすべての器具に油を塗って、その祭壇を聖別しなければならない.こうして祭壇は最も聖なるものとなる。また、洗盤とその台に油を塗って、それを聖別しなければならない。アロンとその子たちを集会の天幕の入り口の近くに連れて来て、彼らを水で洗わなければならない。そして、アロンに聖なる衣を着せ、彼に油を塗って彼を聖別し、彼がわたしに祭司として仕えるようにしなければならない。また、彼の子たちを近くに連れて来て、彼らに下服を着せ、彼らの父に油を塗ったように彼らにも油を塗って、彼らがわたしに祭司として仕えるようにしなければならない.彼らの油塗られることは、彼らに代々にわたって永続する祭司職にあずからせるためである」。モーセはそのように行なった.すべてエホバが彼に命じられたとおり、彼は行なった。さて、第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋は建て上げられた。モーセは幕屋を建て上げ、その台座を据え、その枠板を立て、その横木を入れ、その柱を建て上げた。そして、幕屋の上に天幕を広げ、そこに上から天幕のおおいをかけた.エホバがモーセに命じられたとおりである。次に、彼は証しの板を取って、それを箱の中に入れ、竿を箱に付け、罪を覆う蓋を箱の上に置いた。そして、箱を幕屋の中に入れ、隔てのために垂れ幕をかけ、証しの箱を隔てた.エホバがモーセに命じられたとおりである。次に、彼は集会の天幕の中、すなわち、幕屋の北側で垂れ幕の外側に机を置いた。そして、その上にパンを列に並べて、エホバの御前にささげた.エホバがモーセに命じられたとおりである。次に、彼は集会の天幕の中、机の反対側の幕屋の南側に燭台を置いた。そして、エホバの御前でともし火をつけた.エホバがモーセに命じられたとおりである。次に、彼は集会の天幕の中の垂れ幕の前に、金の祭壇を置き、その上でかおり高い香をたいた.エホバがモーセに命じられたとおりである。次に、彼は幕屋の入り口のとばりをかけた。彼は全焼のささげ物の祭壇を、集会の天幕である幕屋の入り口に置き、その上に全焼のささげ物と穀物のささげ物をささげた.エホバがモーセに命じられたとおりである。また、彼は集会の天幕と祭壇の間に洗盤を置き、洗うためにそこに水を入れた。モーセとアロンとその子たちは、そこで手と足を洗った.集会の天幕に入るときはいつも、また祭壇に近づくときはいつも、彼らは洗った.エホバがモーセに命じられたとおりである。彼はまた、幕屋と祭壇の周り全体に庭を設け、庭の門のとばりをかけた。こうして、モーセはその作業を終えた。その時、雲は集会の天幕を覆い、エホバの栄光が幕屋を満たした。モーセは集会の天幕に入ることができなかった.雲がその上にとどまり、エホバの栄光が幕屋を満たしたからである。雲が幕屋の上から立ち上るときはいつも、イスラエルの子たちは出立した.彼らが行程にある間は常にそのようにした.しかし、雲が立ち上らなければ、それが立ち上る日まで彼らは出立しなかった。昼は幕屋の上にエホバの雲があり、夜は雲の中に火があって、イスラエルの全家の目に見えた.彼らが行程にある間、いつもそうであった。

40:3フットノート1 幕屋の中に入れられた器具の第一の項目は契約の箱であり(20-21節)、契約の箱が幕屋とその器具の中心的な項目であったことを示します。大部分のクリスチャンは祭壇における救いの経験に注意しますが、出エジプト記が啓示するのは、証しの箱を証しの幕屋の中に持つことが神の意図であるということです。最終的に、幕屋の中の契約の箱は、永遠の幕屋、すなわち新エルサレムにおいて究極的に完成し、契約の箱、すなわち贖うキリストを中心とします(啓21:2-3.22:1)。神の永遠の目標は、新エルサレムを幕屋と契約の箱の究極的な成就として持つことです。

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