王国(βασιλείαν<basileian>)―使徒28:31
【回復訳】 使徒28:31 大胆に、妨げられることなく、神の王国を宣べ伝え、主イエス・キリストについての事柄を教え続けた。
岩波訳はここの「basileian」を回復訳と同じく「王国」と訳しています。その他の翻訳は「国」と訳しています。日本語訳聖書の比較はこちらのサイトから参照いただけます。
ギリシャ語
κηρύσσων τὴν βασιλείαν τοῦ Θεοῦ καὶ διδάσκων τὰ περὶ τοῦ Κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ μετὰ πάσης παρρησίας ἀκωλύτως.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
basileia: kingdom, sovereignty, royal power
Original Word: βασιλεία, ας, ἡ
Part of Speech: Noun, Feminine
Transliteration: basileia
Phonetic Spelling: (bas-il-i'-ah)
Definition: kingdom, sovereignty, royal power
Usage: kingship, sovereignty, authority, rule, especially of God, both in the world, and in the hearts of men; hence: kingdom, in the concrete sense.
解説
『神の王国は、本書の強調点の一つです。ルカのこの文書は、神の王国で始まり(1:3)、神の王国で終わります。
実際には、この書はここで終わってはいません。むしろ、それは開かれたままであり、追加されています。その理由は、聖霊がキリストの信者たちを通して、キリストを宣べ伝え、彼を増殖し、拡増し、普及させる働きが、まだ完成されておらず、長期間にわたる継続が必要であったからに違いありません。キリストを増殖し、拡増し、普及させるそのような福音の働きは、神の新約エコノミーにしたがったものです。それは、神のために多くの子たちを生み出し(ローマ8:29)、彼らがキリストの肢体となって、彼のからだを構成し(ローマ12:5)、神の永遠のご計画を遂行し、彼の永遠のみこころを成し遂げることです。このことは、本書に続く二十一の書簡と啓示録で、詳細に啓示されています。キリストの増殖と拡増によって生み出された召会は、神が表現され、神がキリストにおいて統治される領域です。ですから、召会は神の王国となります。神の王国は、神の命から出て、キリストの増殖と拡増に伴って成長し、普及していきます。使徒行伝は、キリストが普及していく記録です。それはまた、神の王国の記録でもあります。なぜなら、神の王国はキリストの拡大であるからです。本書で広範囲にわたって宣べ伝えられた福音は、福音としてのキリストご自身(5:42)、すなわちキリストの福音であり、また福音としての神の王国(8:12)、すなわち神の王国の福音でもあります。そのような福音を宣べ伝えることは、全地がキリストの王国となるまで(啓11:15)、継続し前進します。
四福音書で、神は、肉体と成り、人の生活を経過し、死に、復活した、三一の神の具体化であるキリストを完成されました(コロサイ2:9)。使徒行伝では、この神の具体化である方が、命を与える霊として(Ⅰコリント15:45)、キリストを彼の信者たちの中に拡大させられます。すなわち、手順を経た三一の神を、神に選ばれ、贖われ、造り変えられた人々の中へ造り込んで、彼らを、神が表現される召会の構成要素とします。召会の最終結果は、永遠の未来における新エルサレムであり、神の全き、永遠の表現です。それは、神の永遠の王国でもあり、神が永遠にあって、彼の神聖な命の中で、永遠にわたって統治する領域です。これが、今日すべての福音の宣べ伝えの実際と目標であるべきです。』(回復訳聖書 使徒28:31フットノート2)
補足
新約の福音は神の王国と関係がある
新約時代、すなわち福音の時代において、神が人に語った最初の語句は、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」でした(マタイ3:2)。彼はバプテスマのヨハネを通してこの言葉を語りました。主イエスが出て来て宣べ伝えた時、彼の最初の言葉も「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」でした(4:17)。なぜ悔い改める必要があるのでしょうか?それは天の王国が近づいたからです。悔い改めは人々を天の王国の中へともたらします。それは人々が彼らの罪から赦され、命を受け、救われ、再生されるようにするだけでなく、彼らを王国の中へともたらします。後に、主イエスはすべての町や村を行き巡り、会堂で教え、単なる罪の赦しの福音や命の福音でなく、王国の福音を宣べ伝えました(9:35)。
主イエスは地から去ろうとしていた時、彼の弟子たちに次のように告げました、「この王国の福音は、すべての民に対する証しのために人の住む全地に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(24:14)。この言葉は多くの事を暗示します。それがおもに示しているのは、王国が人の住む全地に宣べ伝えられ、ついにすべての民はこの王国を知るようになり、それから終わりが来るということです。
使徒行伝が啓示しているのは、主イエスが彼の復活の後、四十日の期間にわたって特に王国について彼の弟子たちに語られたということです(1:3)。それからペンテコステの時に弟子たちはエルサレムにおいて、また地の至る所で福音を宣べ伝えました(2:1-41、8:1-4)。使徒行伝はまた、彼らが宣べ伝えた福音が神の王国の福音であったと言っています(12節、14:22)。パウロ自身でさえ、彼が神の恵みの福音を証しすることは彼が王国を宣べ伝えることであると言いました。ですから、神の王国が神の福音の内容です(20:24-25)。使徒行伝の最後の節は、使徒パウロが「大胆に、……神の王国を宣べ伝え、主イエス・キリストについての事柄を教え続けた」と言っています(28:31)。
わたしたちが書簡にやって来るとき、使徒パウロはローマ人への手紙で言っています、「神の王国は食べ飲みすることではなく、義と平和と聖霊の中の喜びとであるからです」(14:17)。コリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙において、パウロは気ままな者たち、汚れた者たち、邪悪な者たちが神の王国を受け継ぐことはないことを示しました(Iコリント6:9-10、ガラテヤ5:19-21、エペソ5:5)。コロサイ人への手紙第1章13節で彼は書いていますが、神の救いはわたしたちを暗やみの権威から救い出して、彼の愛する御子の王国へと移すことです。神の観点から、わたしたちは以前サタンの王国、すなわち暗やみの権威の中にいましたが、神はわたしたちを暗やみの権威の王国から救い出して、彼の愛する御子の王国に移してくださいました。
使徒パウロは、彼の手紙の中で福音が神の王国であることを述べている唯一の人ではありません。ヤコブも彼の手紙の中でこの事柄に言及しています。彼はこのように言っています、「神はこの世の貧しい人たちを選んで、信仰において富む者とし、またご自身を愛する人たちに約束された王国の相続人とされたのではありませんか?」(2:5)。ペテロも彼の手紙の中で神の王国に言及しています。彼はこのように言っています、「このようにして、あなたがたは豊かに、あふれるばかりに供給されて、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国へと入るのです」(Ⅱペテロ1:11)。おもに命について供給した使徒ヨハネでさえ、神の王国を述べています。彼は再生が神の王国のためであることを示しており、人は新しく生まれなければ、神の王国の中へと入ることはできないと書いています(ヨハネ3:3、5)。啓示録を書くことにおいて、彼は、「わたしヨハネは、あなたがたの兄弟であり、イエスにある患難と王国と忍耐とに共にあずかっている者である」と言うことによって開始しています(1:9)。その書の途中で、彼は「世の王国は、わたしたちの主と彼のキリストの王国となった」と言いました(11:15)。最後に、彼はすべての勝利者が復活させられて、千年間キリストと共に王として支配すると言いました(20:4、6)。最後に、彼はすべての救われた者たちが永遠において、また永遠にわたって王として支配すると言われました(22:5後半)。
(信者たちのとって王国は何であるか 第一章より抜粋)