バプテスマされる(βαπτισθεὶς<baptistheis>―マルコ16:16)
【回復訳】 信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
【KG訳】 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
【SK訳】 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
【SKD訳】 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
ギリシャ語
ὁ πιστεύσας καὶ βαπτισθεὶς σωθήσεται, ὁ δὲ ἀπιστήσας κατακριθήσεται.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
baptizó: to dip, sink
Original Word: βαπτίζω
Part of Speech: Verb
Transliteration: baptizó
Phonetic Spelling: (bap-tid'-zo)
Definition: to dip, sink
Usage: lit: I dip, submerge, but specifically of ceremonial dipping; I baptize.
解説
『信じること(参照、1:15のノート3)は、奴隷・救い主を受け入れることであり(ヨハネ1:12)、これは罪の赦しのためだけでなく(使徒10:43)、再生のためでもあります(Ⅰペテロ1:21、23)。信じた者たちは、三一の神との有機的な結合の中で(マタイ28:19)、神の子供たち(ヨハネ1:12-13)、キリストの肢体となります(エペソ5:30)。バプテスマされることは、奴隷・救い主の死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また、奴隷・救い主の復活を通して復活させられ、神の新創造となることによって、これを確認することです。そのようなバプテスマは、ヨハネによる悔い改めのバプテスマよりはるかに進んでいます(1:4.使徒19:3-5)。信じることとバプテスマされることは、神の完全な救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側の確証がありません。これら二つは並行すべきです。さらに、水のバプテスマには、霊のバプテスマが伴うべきです。それは、イスラエルの子たちが、海(水)の中と雲(その霊)の中でバプテスマされたようにです(Ⅰコリント10:2.12:13)。』(マルコ16:16フットノート1)
『ここの節は、「信じないでバプテスマされない者」とは言っていません。これは、罪定めは信じないこととだけ関係があって、バプテスマされないこととは関係がないことを示しています。信じることだけで、人が罪定めから救いを受けるのに十分です。しかし、人の内なる救いの完成のために、信じることは、外側の確証としてのバプテスマを必要とします。』(マルコ16:16フットノート2)
『バプテスマは形式や儀式ではありません。それは、わたしたちとキリストとの一体化を表徴します。バプテスマを通して、わたしたちはキリストの中に浸し込まれ、キリストをわたしたちの領域とします。それは、わたしたちがキリストの死と復活の中で、彼と一つに結合されるためです。』(ローマ6:3フットノート1)