すべてを含むキリスト(2)良き地の良さ ― その広大さ

第2章 良き地の良さ――その広大さ

キリストのすべてを含む予表

 カナンの地だけが満ち満ちた予表、キリストのすべてを含む予表です。キリストはすべてでありすべての中におられ、キリストはすべてを含む方です。すべては彼の中にあり、彼はすべての中におられます。旧約でカナンの地以外に、彼をそのように示す他の予表はありません。

 キリストはすべてであり、すべての中におられます。キリストは光、命、食物、生ける水であるだけでなく、キリストはわたしたちのすべてです。あなたが必要とするもの、接触するもの、得るもの、享受するもの、経験するものは何であれ、これらすべてのものはキリストでなければなりません。キリストはわたしたちにとってすべてを含む方です。わたしたちはこう祈る必要があります、「主よ、あなたはわたしの命であり、あなたはわたしの道であり、あなたはわたしのすべてです。ですから、わたしはもう一度あなたに来てあなたをすべてとします」

神の民の安息

 神は、この地が神の民の安息であると言われました。安息とは全体的なもの、満ち満ちたもの、完全なものです。あなたはすべてを持つとき、真に安息することができます。その地は神の民の安息でした。なぜならその地は全体で、完全で、豊満であったからです。その地であなたはすべてを持ちます。その地はあなたを満足させます。

 わたしたちはヘブル人への手紙第3章と第4章によって、イスラエルの民にとって安息であったその地がキリストの予表であることを認識します(3:7―4:12)。キリストは安息です。なぜなら、キリストはわたしたちのすべてであるからです。

その地の良さ

 旧約で何度も、この一画の地は「良き地」と呼ばれています。「わたしはあなたを『良き地』に導く」。もしあなたがこれに特別な注意を払わなければ、それは普通の声明にすぎないと感じるでしょう。わたしたちは常に、あるものは良いと言っています。それはわたしたちにとって普通の形容となり、何も特別な意味もそれに加えられません。しかし主が、あるものは良いと言われるとき、わたしたちは注意を払わなければなりません。これは普通ではないのです。そして彼はそれを何度も言われます。良き地……良き地……良き地! それは真に良いに違いありません!

 この地の良さは何でしょうか? 主がそれは良き地であると言われたなら、その良さは何でしょうか? 過去わたしたちの大部分がこの事柄にあまり注意を払いませんでした。わたしたちはただそれを良き地としてそれでよいことにし、その良さの理由を尋ね求めませんでした。

 この地の良さを完全に説明することはかなり難しいのです。出エジプト記第3章8節は言います、「わたしは下って行って、……彼らをその地から、良い広大な地に……上らせる」。それは良い広大な地です。それはまず「広大さ」において良いのです。

 広大さとは何であるかをあなたは理解しています。しかしあなたはこの地の広大さを記述することができるでしょうか? あなたはキリストの範囲、あるいは広がりを告げることができるでしょうか? 言い換えれば、あなたはキリストがどれほど大きいかを知っているでしょうか? わたしたちはみなある度量を持っていますが、キリストの度量とは何でしょうか? 使徒パウロはそれをエペソ人への手紙第3章で与えています。キリストの度量は「その広さ、長さ、高さ、深さ」です。その広さがどれほど広いか、長さはどれほど長いか、高さはどれほど高いか、深さはどれほど深いか、あなたは告げることができるでしょうか? あなたがわたしに尋ねるなら、わたしは「わかりません。それは無限です」と言わなければなりません。キリストの広さは宇宙の広さです。キリストは全宇宙の広さであり、キリストは全宇宙の長さであり、キリストは全宇宙の高さであり、キリストは全宇宙の深さです。もし宇宙に限界があるなら、その限界はキリストであるに違いありません。あなたは決してキリストの大きさを計ることができません。これがその地の良さの第一項目です。その地はキリストの無限の度量において良いのです。

キリストの広大さを適用する

 わたしたちは、キリストの度量をどのように適用することができ、その広さ、長さ、高さ、深さをどのように適用することができるかを知る必要があります。主が無限であることをわたしたちが知っている限り、それで十分です。平安になって、わたしたちの重荷をすべて主に投げ、主をわたしたちの無限の助けとしましょう。

 おお、兄弟たち、「あなたの経験によって」、あなたはキリストの程度、広さを認識することができます。あなたの経験によって、あなたはキリストの広大さを認識します。それは無限です。キリストは彼の無限において良いのです。(「すべてを含むキリスト」、第2章より抜粋)


JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。

さらにお読みください:ヘブル4:9のフットノート1.出エ3:8のフットノート1

ヘブル4:9のフットノート1
ヘブル4:9 こういうわけで、ある安息日の安息が、神の民のために、まだ残されているのです。

 この安息日の安息は、わたしたちの安息としてのキリストであり、カナンの良き地で予表されています(申12:9.ヘブル4:8)。キリストは三つの段階で、聖徒たちの安息です。(1) 召会時代に、彼は天のキリスト、ご自身の働きから安息して、天で神の右に座しておられる方として、今わたしたちの霊の中で、わたしたちの安息です(マタイ11:28-29)。(2) 千年王国において、サタンがこの地から取り除かれた後(啓20:1-3)、王国を伴うキリストは、勝利を得た聖徒たちのさらに完全な安息です。彼らは彼の共同の王となって(啓20:4、6)、彼の安息にあずかり享受します。(3) 新しい天と新しい地において、すべての敵が、最後の敵である死を含めて、キリストに服従させられた後(Ⅰコリント15:24-27)、キリストは、すべてを征服する方として、神に贖われたすべての者の永遠にわたる最も完全な安息となられます。しかし、ここで述べられている安息日の安息は、カナンの良き地の安息で予表されていて、キリストがわたしたちの安息であることの初めの二つの段階だけで、第三段階を含んでいません。初めの二つの段階の安息は、努め励んで彼を追い求める者たちへの賞であって、彼らは贖われているだけでなく、彼を完全に享受し、こうして勝利者となります。ところが第三段階の安息は、賞だけでなく、すべての贖われた者に割り当てられた完全な分け前でもあります。ですから、ここで述べられている安息日の安息は、初めの二つの段階、特に第二段階で、わたしたちの安息としてのキリストを指しているのです。その安息は、わたしたちが努め励んで追い求め、その中に入るようにと残されています。キリストが全地を彼の嗣業として所有し(詩2:8.ヘブル2:5-6)、それを千年間、彼の王国とされるのは(啓11:15)、彼がわたしたちの安息であることの第二段階においてです。最初の段階で、彼を安息として追い求め、享受する彼の勝利を得た追従者たちはみな、千年王国において、彼の統治にあずかります(啓20:4、6.Ⅱテモテ2:12)。さらに、彼らは地を受け継ぎ(マタイ5:5.詩37:11)、ある者は十の町を支配する権威、ある者は五つの町を支配する権威を持ち(ルカ19:17、19)、彼らの主人の喜びにあずかります(マタイ25:21、23)。それは王国の安息であり、カナンの良き地に入る安息で予表されています。良き地の安息は、贖われ、エジプトから救い出されたすべてのイスラエルの子たちの目標でした。同じように、来たるべき王国の安息は、贖われ、この世から救われた新約の信者たちの目標です。わたしたちは今や、みなこの目標に向かう途上にあります。
 イスラエルの子たちにもくろまれた神の完全な救いは、過越の小羊を通しての贖い、エジプトからの脱出、天のマナで養われること、裂かれた岩から生ける水によって渇きがいやされること、カナンの良き地にあずかることを含みました。すべてのイスラエルの子たちは、過越の小羊、天のマナ、生ける水にあずかりましたが、エジプトから脱出した者たちのうちで、ヨシュアとカレブだけが良き地に入り、それにあずかりました。残りの者はみな、荒野で倒れました(民14:30.Ⅰコリント10:1-11)。すべての者は贖われましたが、わずか二人の勝利者、ヨシュアとカレブだけが、良き地の賞を受けたのです。
 過越の小羊、天のマナ、生ける水、カナンの良き地はすべて、キリストのさまざまな面の予表です。イスラエルの子たちの経験によって記述されていることによれば、キリストを通して贖われたすべての信者が、召会時代と来たるべき王国の時代で、賞としての彼らの安息、満足としてのキリストにあずかるわけではありません。贖われた後、努め励んでキリストを追い求める者たちだけが、そのような方法で彼にあずかります。こういうわけで、使徒パウロは、完全に贖われてはいましたが、なおも目標に向かって追い求めていました。それは、彼が賞としてのキリストを獲得するためでした(ピリピ3:10-14)。パウロはピリピ人への手紙第3章で、自分はユダヤ教にいたが、キリストのゆえにそれを放棄したと言いました(ピリピ3:4-9)。本書のここで、著者は同じ観念を持って、ヘブル人信者たちに、ユダヤ教を捨て、キリストに向かって前進するようにと励ましています。それは、彼らが賞を失うことがないためです。

出エ3:8のフットノート1

出エ3:8 わたしは下って行って、彼らをエジプト人の手から救い出し、そして彼らをその地から、良い広大な地に、乳と蜜の流れる地に、カナン人とヘテ人とアモリ人とペリジ人とヒビ人とエブス人の所に上らせる。

 神がモーセを召した目的は、消極的な面で、イスラエルの子たちをパロの占有と暴虐から救い出すことであり、積極的な面で、彼らをカナンの乳と蜜の流れる地へともたらすことでした(申8:7-9)。彼らはそこで神の王国を設立し(19:6.サムエル下5:12.7:12、16)、彼の住まいを地上で建造することができました(サムエル下7:13)。予表では、これは人々をサタンとこの世の占有と暴虐から救い出して、人々をカナンの地で予表されるすべてを含む方、キリストの中にもたらし(参照、申8:7のフットノート1)、神の王国、地上での神の住まいとしての召会を建造することを表徴します(ローマ14:17.エペソ2:20-22.4:12)。
この章で啓示されているように、神の定められた御旨を完成することで、イスラエルの子たちは三つの地点を経過しました。それは荒野(18節)、山(12節)、良き地です(8、17節)。過越(12:11、31-41)と紅海を渡ること(14:21-30)によって、イスラエルの子たちはエジプトから出て、荒野に入って来ました。そして、苦い水を甘くする木によって(15:23-25)、エリムでの十二の泉によって(15:27)、天からのマナによって(16:14-15、31-32、35)、裂かれた岩からの生ける水によって(17:6)、アマレクに対する勝利によって(17:8-16)、彼らは山にもたらされました。彼らは山で、神が何であるかの、彼らが神の属性にしたがって生きるべき生活の、地上で神の民の間に住まいを持つという神の心の願いの啓示を受けました(第19章―第34章)。彼らはまた、地上での神の一時的な住まいとしての幕屋を建てました(第35章―第40章)。最後に、契約の箱と幕屋によって、イスラエルの子たちは良き地に入りました(ヨシュア3:3、6、8、13-17.4:10-19)。彼らはそこで、地の豊富な産物の享受を通して、その地を占有していたカナン人を打ち破り、地上での神の永久の住まいとしての宮を建てました(列王上第6章)。イスラエルの子たちのそのような歴史は、信者の完全な救いの描写です。

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