神はこのキリスト・イエスを立てて、なだめの場所とされました(173)

なだめの場所(ἱλαστήριον<hilastērion>)―ローマ3:25

【回復訳】 ローマ3:25前半 神はこのキリスト・イエスを立てて、なだめの場所とされました.

その他の翻訳は「hilastērion」を「贖いの座」「贖罪の供え物」「罪を償う供え物」「宥めの供え物」「なだめの供え物」「あがないの供え物」などと訳しています。日本語訳聖書の比較はこちらのサイトから参照いただけます。

ギリシャ語

ὃν προέθετο ὁ Θεὸς ἱλαστήριον διὰ πίστεως ἐν τῷ αὐτοῦ αἵματι,(Nestle 1904)

Strong's Concordance
hilastérion: propitiatory
Original Word: ἱλαστήριον, ου, τό
Part of Speech: Noun, Neuter
Transliteration: hilastérion
Phonetic Spelling: (hil-as-tay'-ree-on)
Definition: propitiatory
Usage: (a) a sin offering, by which the wrath of the deity shall be appeased; a means of propitiation, (b) the covering of the ark, which was sprinkled with the atoning blood on the Day of Atonement.

こちらのサイトを引用させて頂きました:Bible Hub

解説

『なだめの場所は、出エジプト記第25章17節で、契約の箱の上の、罪を覆う蓋で予表されています。契約の箱は、神が民と会われる場所でした。契約の箱の中には、十戒の律法がありました。それは、その聖と義の要求によって、神に触れるために来た民の罪を暴露し、罪定めしました。しかしながら、罪を覆う日に、契約の箱の蓋の上に罪を覆う血が振りかけられることによって、罪人の側の状態がすべて、完全に覆われました。ですから、罪を覆うこの蓋の上で、神は彼の義の律法を破った民と会うことができました。神はこれを、行政上、彼の義に何の矛盾もなく、神の栄光を担い、その契約の箱の蓋を覆っていたケルビムが見つめている下でさえ、行なうことができました。こうして、人と神との間の問題は和らげられました。神は人を赦し、人に対してあわれみ深くあり、それによって、神の恵みを人に与えることができるようになったのです。これは、キリストが神の小羊として、人が神に対して問題を引き起こす罪を取り除き(ヨハネ1:29)、こうして神の聖、義、栄光の要求すべてを満たし、人と神との間の関係を和らげることの予表です。こういうわけで、人がかつて引き起こした罪を、神は過ぎ越すことができたのです。神は彼の義を明らかに示すために、これを行なわなければなりませんでした。これが、この節で言っていることです。
 契約の箱の蓋は、ヘブル語ではカポレス(kapporeth)で、その元の意味は「覆う」です。七十人訳では、この言葉をヒラステリオン(hilasterion)と訳しており、これは「なだめの場所」を意味します(「なだめ」は赦し、あわれむことを暗示します―「なだめの」(ヘブル8:12)と訳された言葉は、ヒラステリオンの語根で、「なだめられた」(ルカ18:13)と訳された言葉は、この語根から派生したものです)。キング・ジェームズ訳は、「あわれみの座」(mercy seat)という訳を採用し、神が人にあわれみを与える場所のことを言っています。パウロはヘブル人への手紙第9章5節でも、契約の箱の蓋を言うのに「ヒラステリオン」という言葉を用いています。ローマ人への手紙第3章25節でも同じ言葉、「ヒラステリオン」が使われていて、契約の箱の蓋が、神によって立てられたなだめの場所としてのキリストを予表することを示しています。
 「ヒラステリオン」以外に、新約では、それと同じギリシャ語から派生した二つの言葉が使われていて、キリストが人の罪を取り除いて、人と神との関係をなだめたことを示します。一つは「ヒラスコマイ」(hilaskomai―ヘブル2:17)で、「なだめること」、すなわち、「和らげること」、一方の要求を満たすことによって和解させることを意味します。もう一つは「ヒラスモス」(hilasmos―Ⅰヨハネ2:2.4:10)で、「なだめるもの」、すなわち、なだめのいけにえを意味します。キリストは、わたしたちの罪のためになだめを成就されました(ヘブル2:17)。ですから、彼はわたしたちと神との間でなだめるもの、なだめの供え物となり(Ⅰヨハネ2:2.4:10)、さらに契約の箱の蓋で予表されているように、なだめの場所となられたのです(ヘブル9:5)。そこにおいて、わたしたちは神の御前でなだめを享受し、神はわたしたちに恵みを与えられます。』(回復訳聖書 ローマ3:25フットノート2

補足

新約における贖い ― なだめ

 旧約における償いは、新約聖書におけるなだめの予表でした。なだめは、新約聖書では少なくとも五回述べられています。ヨハネの第一の手紙第2章2節と第4章10節で、キリスト、神の御子は、わたしたちの罪のためのなだめであると告げています。両方の箇所で、なだめという言葉は実は供え物を意味し、「なだめの供え物」と訳すべきです。これらの節のギリシャ語はヒラスモス(hilasmos)で、「なだめるもの」を意味します。ヨハネの第一の手紙第2章2節と第4章10節で、主イエスはわたしたちの罪のためのなだめの供え物です。なだめに関するもう一つのギリシャ語ヒラステリオン(hilastérion)は、ヘブル人への手紙第9章5節とローマ人への手紙第3章25節に見いだされます。ヒラステリオンは、なだめがなされる場所を意味します。正しい参考書は、この二つのヒラステリオンという言葉がなだめの場所を意味することを示しており、キング・ジェームズ訳はそれを「あわれみの座」(mercy seat)と訳しています。七十人訳(Septuagint)、旧約聖書のギリシャ語訳では、ヒラステリオンは、出エジプト記第25章とレビ記第16章の「なだめのおおい」に当たる言葉です。ですから、ヒラステリオンはなだめの場所です。さらに、ヘブル人への手紙第2章17節に、ヒラスコマイ(hilaskomai)という言葉、名詞ヒラスモスの動詞形があります。キング・ジェームズ訳はヒラスコマイを「和解させる」と訳しています。しかしながら、それは「なだめる」と訳すべきです。キリストはわたしたちの罪をなだめられます。なだめるという事柄は、キリストに関連して新約聖書では五回述べられています。二回はなだめの供え物としてのキリストご自身のことを言い、二回はなだめが達成された場所のことを言い、一回はなだめの行為のことを言います。

 新約聖書にあるこれら五回の引照に加えて、取税人が宮での祈りに使った同じ語源を見いだします(ルカ18:13)。キング・ジェームズ訳によれば、取税人は「神よ、わたしをあわれんでください」と祈りました。しかしながら、ギリシャ語は、「わたしに対して、なだめとなってください」を意味します。取税人は実はこう祈っていたのです、「おお、神よ、わたしに対して、なだめとなってください。わたしはあなたの目に罪深い者です。わたしはなだめを必要とします」。

 なだめの意味は何でしょうか? どのようにしてそれを、一方で贖いと、もう一方で和解と、区別したらよいのでしょうか? 新約聖書を注意深く読むなら、和解はなだめを含んでいることを発見するでしょう。ところが、両者の間には違いがあります。なだめは、あなたが他の人に対して問題があることを意味します。あなたは彼を怒らせたか、あるいは彼に負い目があります。例えば、わたしがあなたに悪いことをしたとか、あなたに負債があるとすると、わたしたちの間に問題が存在します。この問題、あるいは負債のゆえに、あなたはわたしに要求するものがあり、あなたの要求が満たされなければ、わたしたちの間の問題は解決され得ません。ですから、なだめの必要があります。

ギリシャ語のヒラスモスは、わたしはあなたに悪いことをしたので今あなたに負債がある、ということを意味します。わたしたちの間には、わたしたちの関係を妨げる問題があります。ですから、なだめには両当事者が関係し、一方が他方に悪いことをし、他方に負債があるようになったので、相手の要求を満たす行動をしなければなりません。加害者が被害者をなだめようとするなら、相手の要求を満たさなければなりません。七十人訳は、レビ記第25章9節と民数記第5章8節のヒラスモスという言葉を、贖罪の言葉として使っています。なぜなら、このギリシャ語は両当事者を和解させ、一つにすることを意味するからです。これは贖罪の事柄です。

 償う(atone)という言葉は二つの言葉、「at」と「one」から成っています。わたしたちは「償い」(atonement) という言葉をat-one-mentと書いてもいいのです。償うという意味は、両者を一にもたらすことです。両当事者が分離され、一つになろうとする時、なだめの必要があります。これが償いです。なだめの行為が償いです。なだめはわたしたちを神と一つにすることを意味します。なぜなら、わたしたちと神との間に分離があったからです。わたしたちを神から引き離し、彼と直接の交わりを持つことを不可能にしていた問題は、何であったのでしょうか? 問題はわたしたちの罪でした。わたしたちの罪が、わたしたちを神の臨在から引き離し、神がわたしたちに来られるのを妨げました。ですから、わたしたちは神の要求をなだめるなだめを必要としました。キリストはなだめの供え物としてご自身をささげた時、十字架上でこれを達成されました。十字架上で、彼はわたしたちのためになだめをなし、わたしたちを神に連れ戻し、神と
一つにしてくださいました。

(新約ライフスタディ ローマ人への手紙 第五編「神の道における義認」より抜粋)

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