すべてを含むキリスト(5)良き地の良さ ― その計り知れない豊富(2)― 食物【1】

第5章 良き地の良さ ― その計り知れない豊富(2)― 食物【1】

申命記第8章は、いくつかの種類の水(泉、源泉、流れ)について語ります。次に、それは食物について語ります。

七種類の食物

 8節は言います、「小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地」。六つの項目があり、そのすべては植物界に属しており、七つ目は蜜です。蜜は、一部分は動物界に属し、一部分は植物界に属しているようです。なぜなら、それは蜜蜂によって生み出されるからです。二つの界のミングリングがあります。

 このすべての物(小麦、大麦、ぶどうの木、いちじく、ざくろ、オリブ)はキリストを表しています。

小麦と大麦

 わたしたちはヨハネによる福音書第12章24節から、主が地に落ちて死に、葬られた一粒の小麦であるのを見ることができます。小麦は肉体と成ったキリストを表します。キリストは、肉体と成って人と成り、地に落ち、死んで葬られた神です。これが小麦です。それは、肉体と成ったキリスト、死んだキリスト、葬られたキリストを予表します。

 大麦は復活したキリストです。小麦は彼の肉体と成ること、死、葬りを指しており、これに続いて大麦は彼の復活、復活したキリストを指しています。カナンの地で、大麦は常に最初に熟し、すべての穀物の間で大麦が最初です。

 小麦は、肉体と成り、十字架につけられ、葬られたキリストを表します。大麦は復活したキリストを表します。この二種の穀物はキリストの二つの面、すなわち彼の来ることと彼の行くことを表しています。それらは、キリストが下って来て小麦となることと、キリストが上って行って大麦となることを表しています。

 イエスは五千人を養ったとき、大麦で作られた五つのパンで養われました。大麦のパンとして、それは五千人の人々を養うことができ、残ったパンくずが十二かごあったのです。これが復活です。キリストは彼の復活の中でのみ、わたしたちに対して豊富です。彼は肉体と成ることで、極めて制限されていますが、復活の中では彼はとても豊富です。復活したキリストとして、彼には何の制限もありません。

小麦と大麦の経験

 あなたは主の主権によってある状況の中へと制限され、その中で圧迫されるときはいつも、主を小麦として経験することができます。制限し圧迫する状況のただ中であなたが主と接触するとき、彼はあなたにとってまさしく一粒の小麦のようです。

 小麦に続くのは大麦です。墓は主の終わりではありませんでした。主は復活させられ、大麦が小麦に続きました。小麦は死の谷ですが、大麦は復活の山です。あなたはキリストを小麦として経験するときはいつも、キリストを大麦として経験することが続くことを確信してください。

 イエスは弟子たちに、「『あなたがたが』彼らに何か食べる物を与えなさい」と言われました。弟子たちは、「五つの大麦のパンがあります。しかし、こんなに大勢では何になりましょう?」と言いました。主は、「それをわたしの所に持って来なさい」と答えられました。それが大麦のパンである限り、それが復活したキリストのものである限り、それで十分です。それはその状況に応じ、そして余りがあります。

 あなたがわたしの言葉を受け入れるなら、復活したキリストを信じ、彼を適用しなさい。あなたの中に残っているものは、あなたが始めたものより多いことを見いだすでしょう。これが大麦です。これは単に教えではなく、わたしたちが毎日すべての状況の中で経験し適用することです。復活したキリスト、無限の、無尽蔵の方を適用しなさい。彼に告げなさい、「主よ、わたしは必要に応じることができず、その状況に対峙することができませんが、何とあなたを賛美することでしょう。『あなた』はできます。わたしは完全にあなたに信頼し、完全にあなたに依り頼んで前進します」。

 かなりの時、おそらく五、六年の後、キリストを一粒の小麦として家庭で経験したあの姉妹が別の経験を証ししました。この時それは大麦としてのキリストでした。彼女は、姑や彼女の多くの親族が彼女を通して主にもたらされたことを証ししました。彼女は大麦のパンになって多くの人々を養ったのです。彼女は復活の中のキリストを経験しました。

 このような経験はあなたに、キリストを内側で小麦として、また大麦として認識させるだけでなく、この経験によってあなたが一粒の小麦と「なり」、あなたが大麦のパンと「なるのです」。そしてあなたは他の人のための食物です。あなたは自分が経験したものによって人を養うことができます。とても多くの人がこの姉妹によって養われました。彼女が集会に来るときはいつも、たとえ口を開かなくても、すべての兄弟姉妹がキリストの供給、命の供給を感じました。彼女が祈ったとき、すべての霊と心が満足しました。彼女は主の子供たちの間で一粒の小麦となりました。そして彼女自身が大麦のパンとなって、多くの人々を満足させ養いました。彼女はキリストを小麦として、また大麦として経験しました。ですから彼女自身が一粒の小麦と大麦のパンとなったのです。

ぶどうの木

 士師記第9章13節でぶどうの木は言いました、「わたしは、神と人を活気づけるわたしの新しいぶどう酒を捨て置[か]……なければならないのでしょうか?」。ある意味で、それは犠牲となるキリスト、ご自身のすべてを犠牲としたキリストを描写しています。しかしこれは主要な点ではありません。主要な意義は、彼が犠牲から神と人を活気づけるもの、新しいぶどう酒を生み出したことです。

 時には主の主権の下で、わたしたちはある状況の中に置かれ、その中で自分自身を犠牲にして他の人を幸いにし、また主を幸いにしなければならないようにされます。わたしたちはこの状況の中で主に来て主と接触するとき、ぶどう酒を生み出すぶどうの木として彼を経験します。わたしたちは、神を活気づけ、他の人を活気づける方としてキリストを経験します。この経験からわたしたちはぶどうの木になります。わたしたちは人と神の両方を活気づけるものを生み出す者となるのです。

 最も幸いな人は、最も利己的でない人です。最も利己的な人は常に最もみじめな人です。彼らは常に、「わたしをあわれんでください。わたしを少し良く扱ってください!」と叫んでいます。彼らは物乞いのようであり、絶えず乞い求めています。犠牲になる人は幸いな人です。わたしたちはどのように犠牲になることができるのでしょうか? わたしたちには犠牲になる力はありません。なぜなら、わたしたちの命は天然の命、利己的な命であるからです。キリストの命だけが犠牲の命です。あなたがこのキリストと接触し、彼の犠牲になる命を経験するなら、彼はあなたを力づけ、あなたを強めて、神のためまた人のために犠牲となるようにしてくださいます。そしてあなたは最も幸いな人になり、幸いになって酔うでしょう。これがキリストをぶどうの木として経験することです。この経験によって、あなたは他の人にとってぶどうの木となります。あなたと接触する人はみなあなたに対して幸いであり、またあなたは神を活気づけます。

 ぶどうを酒にするには、圧搾されなければなりません。神と人を幸いにするために、あなたは圧搾されなければなりません。あなたは喜んで、キリストが大麦、すなわちあなたの内側の復活したキリストであること、彼があらゆる状況に十分に応じられることを学びます。あなたは、「ハレルヤ!」と言います。しかし、ハレルヤをあまりたやすく言わないでください。なぜなら大麦に直ちに続くのが、ぶどうの木であるからです。ぶどうは神と人を活気づけるために圧搾されなければなりません。あなたも圧搾されなければなりません。あなたはキリストのぶどう酒を飲めば飲むほど、圧搾されなければならないことをますます認識するでしょう。あなたは主の家で何かを生み出して人を幸いにするために、砕かれなければなりません。

 あなたは順序を見ます。最初に小麦、次に大麦、そして次にぶどうの木です。わたしたちの経験はこれを証明します。再び言いますが、これらの事をただ教理や教えとしないでください。あなたがさまざまな面でキリストを認識し、あなたの日常生活の中でキリストを適用する道を覚えていてください。(「すべてを含むキリスト」、第 5 章より抜粋)


JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。

さらにお読みください:申命記8:7-9と7節のフットノート1.士師記9:12のフットノート1.ヨハネ6:9とフットノート2

申命記8:7-9と7節のフットノート1
申命記8:7 それはエホバ・あなたの神が、あなたを良き地に導こうとしておられるからである.そこは水の流れ、泉、源泉があり、谷間と山々に流れている地であり、小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地であり、あなたが欠けることなくパンを食べる地であり、あなたはそこで何も欠けるものはない.その地の石は鉄であって、その山々からは銅を掘り出すことができる。

7節のフットノート1 良き地、カナンの地は、すべてを含むキリストの満ち満ちた、完全で、究極的な予表です。キリストは三一の神の具体化であり(コロサイ2:9)、すべてを含む、命を与える霊として(Ⅰコリント15:45.Ⅱコリント3:17)、神の民に割り当てられた嗣業として実際化され、彼らの享受となります(コロサイ1:12とフットノート2.2:6-7と6節のフットノート2.ガラテヤ3:14とフットノート3)。7節から9節における良き地の豊富は、キリストの計り知れない豊富のさまざまな面を予表します(エペソ3:8)。それらは、彼の霊の中の信者たちに対する満ちあふれる供給です(ピリピ1:19)。流れ、泉、源泉は、あふれ流れる霊としてのキリストを表徴し(ヨハネ4:14.7:37-39.啓22:1)、谷間と山々は、あふれ流れる霊としてのキリストを、わたしたちが経験するさまざまな種類の環境を表徴します(参照、Ⅱコリント6:8-10)。小麦は、肉体と成ったキリストが、十字架につけられ、葬られて、ご自身を増殖させたことを予表します(ヨハネ12:24)。大麦は、最初に熟する穀物であり(サムエル下21:9)、初穂としての復活したキリストを指します(Ⅰコリント15:20)。ぶどうの木は、キリストがご自身を犠牲としてささげて、ぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけることを予表します(士9:13.マタイ9:17)。いちじくの木は、命の供給としてのキリストの甘さと満足について語っています(士9:11)。ざくろは、命としてのキリストの豊富の豊満、充足、美しさ、表現を表徴します(出28:33-34.列王上7:18-20.雅4:3後半、13)。パンは、命のパンとしてのキリストを表徴します(ヨハネ6:35、48)。オリブの木は、キリスト(ローマ11:17)がその霊で満たされ、その霊で油塗られたことを予表します(ルカ4:1、18.ヘブル1:9)。オリブ油は聖霊を予表し、わたしたちはこの聖霊によって歩いて、神を尊び、またこの聖霊を供給して、人を尊びます(ガラテヤ5:16、25.Ⅱコリント3:6、8.士9:9)。乳と蜜は(6:3)、キリストの良さと甘さを語り出しています(参照、出3:8のフットノート2)。石は、神の住まいを建造する材料としてのキリストを表徴します(イザヤ28:16.ゼカリヤ4:7.Ⅰペテロ2:4)。鉄と銅は、武器を造るためであり(創4:22.サムエル上17:5-7)、敵と戦うわたしたちの霊的戦いを予表します(Ⅱコリント10:4.エペソ6:10-20)。また鉄は、キリストの支配する権威を表徴しており(マタイ28:18.啓19:15)、銅は、キリストの裁く力を表徴します(啓1:15とフットノート1)。銅が採掘される山は、キリストの復活と昇天を表徴します(エペソ4:8とフットノート1)。
神のエコノミーの目標は、単に彼の民を贖い、エジプトで予表されるこの世から救うことだけでなく、良き地で予表されるキリストの中へともたらし、彼らが彼を所有し、彼の計り知れない豊富を享受することでもあります。イスラエルの子たちは地の豊富を享受することによって、宮を建造して、地上での神の住まいとならせることができました。また、エルサレムの都を建造して、地上に神の王国を設立することができました。同じように、キリストにある信者たちは、キリストの計り知れない豊富を享受することによって建造され、キリストのからだ、召会となります。それは、キリストの豊満、彼の表現(エペソ1:22-23)であり、また神の住まい(エペソ2:21-22.Ⅰテモテ3:15)と神の王国です(マタイ16:18-19.ローマ14:17)。究極的には、神の住まいと神の王国は、永遠の世の新エルサレムにおいて究極的に完成し、神の永遠のエコノミーを完成します(啓21:1-3、22.22:1、3)。

士師記9:12のフットノート1

士師記9:12 次に、木々はぶどうの木に言った、『あなたが来て、わたしたちを治めてください』。

9:12フットノート1 ぶどうの木は、ご自身を犠牲にし、十字架上で「圧搾されて」新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づける方(マタイ9:17)としてのキリストを表徴します。

ヨハネ6:9とフットノート2

ヨハネ6:9 「ここに、五つの大麦のパンと二匹の魚を持っている少年がいます.しかし、こんなに大勢では何になりましょう?」。

6:9フットノート2 パンは植物の命に属し、キリストの命の生み出す面を象徴します。魚は動物の命に属し、キリストの命の贖う面を象徴します。生み出す命としてのキリストは、陸である神の創造された地で成長します。贖う命としてのキリストは、海であるサタンの腐敗させた世の中で生活されます。わたしたちを再生するために、キリストは神の創造された地の上で、増殖するために成長されました。またわたしたちを贖うために、彼はサタン的で罪深い世の中で生活されました。しかし彼には罪はなく、この世に影響されません。それは、魚が塩水の中で生活しながら、塩辛くないようなものです。
 ユダヤの地で、大麦は一番早く成熟する最初の収穫物です。ですから、それは復活のキリストを予表します(レビ23:10)。大麦のパンは、わたしたちの食物としての復活の中のキリストを予表します。
 大麦のパンも魚も小さいものです。これは、キリストの小さいことを象徴します。キリストは小さいものを通して、わたしたちに命の供給となられます。奇跡を追い求める人たちは、彼を約束された預言者であると考え、無理やり彼を王にしようとしました(14-15節)。しかし彼は、宗教界の巨人になろうとはされませんでした。むしろ、彼は人々が食べられるように、小さいパンと小さい魚であろうとされました。

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