第7章 良き地の良さ ― その計り知れない豊富(4)― 鉱物【1】
その地は水と食物が豊富であるだけでなく、鉱物も豊富です。
申命記第8章9節、創世記第4章22節、申命記第33章25節、エレミヤ書第15章12節、サムエル記上第17章5節から7節、啓示録第1章15節、詩篇第2篇9節、マタイによる福音書第5章14節、詩篇第2篇6節、ペテロの第一の手紙第2章4節から5節、エゼキエル書第37章22節、詩篇第87篇1節、第48篇1節から2節。
このすべての関係には多くの霊的な意義があります。全部で四つの項目、すなわち石、山々、鉄、銅があります。石は建造のためであり、山は国の中心、王国の中心である町のためです。鉄と銅は武器の材料です。
四部類の豊富
その地は第一に水、第二に植物、第三に動物、最後に鉱物が豊富です。四部類ありますが、これらの順序はとても意義深く、とても霊的です。
わたしたちはまず水がなければなりません。そうでないと、植物は成長することができません。水がなければ、植物や野菜は決して存在することができず、決して成長することはできません。ですから水は野菜や植物をもたらすのです。
家畜は野菜、植物の命を食べます。ですから、最初に水、次に植物、そして動物です。この三つの後、その霊は他のものに、すなわち石と、鉄と銅が出る山に転換しています。
霊の命の段階
霊の命の第一段階で、わたしたちはキリストを生ける水として経験します。わたしたちは主に来るとき、彼を生ける水として、生ける流れとして経験します(ヨハネ7:37)。神と小羊の御座から、生ける水の川が流れ、この川の両側には命の木があると告げられています。生ける水は食物としてのキリストの供給をもたらします。キリストを生ける水として経験することによって、この水の中で異なる種類の植物が成長していることを見いだすでしょう。あなたはキリストをあなたの食物の供給として経験します。生ける水の流れに伴って命のパン、命の食物があります。これは、あなたが水だけでなく、異なる種類の食物としてのキリストの供給をも経験することを意味します。このすべての種類の食物はあなたを円熟にもたらすでしょう。
この時点であなたは円熟しています。あなたのキリストに対する経験は、乳と蜜のようにとても豊富で甘いのです。蜜はすべての植物の命の最上の部分です。乳はすべての動物の命の最上の部分です。乳と蜜はすべての食物の供給の最上の部分です。ときどきあなたは霊の中で弱く、キリストを少し味わうとき、彼がいかに豊富で甘いかを感じます。あなたは乳と蜜としてのキリストをほんの少し享受しました。しかしあなたがキリストの命の中で真に円熟するとき、キリストは一日中あなたにとってまさに乳と蜜のようです。あなたは初めに来てキリストを受け入れるとき、生ける水を飲んでいると感じますが、キリストの中で円熟するとき、日ごとに乳と蜜を飲んでいると感じます。彼はあなたにとってとても甘く、とても豊富です。もちろん、生ける水は乳と蜜の中に含まれていますが、この飲み物は水よりもはるかに豊富です。
キリストに対する最初の経験は生ける水の経験ですが、彼の中で成長し、命の中で円熟した後、キリストが生ける水であるだけでなく、乳と蜜の流れでもある点に達します。聖霊は蜜を植物の項目の最後に置き、そして乳と脂肪を牛や羊の動物の後に置いておられます。これが意味するのは、あなたがキリストを植物の命としてある程度まで享受するなら、彼を蜜として享受するということです。そしてあなたは彼を動物の命としてある程度まで享受するなら、彼がまさに乳であると感じます。彼はあなたにとってとても豊富で甘いのです。これは、あなたがいくらか円熟していることを意味します。
今わたしたちは最後の段階、鉱物の段階に来ます。わたしたちは、石、山々、鉄、銅と関係がある場所に来ます。これらは建造のため、王国のため、戦いのため、安全のためです。クリスチャンの中に円熟した命があるときはいつも、神の家の建造が起こり、霊的戦いが戦われます。言い換えれば、キリストを経験することによって円熟している信者たちがいるとき、彼らをもって神の家が建造され、彼らによって戦いが戦われるのです。わたしたちがキリストをある程度まで享受するときはいつも、常にある結果、すなわち建造と戦いがあります。この二つは常に並行します。あなたは神の建造を持とうとするなら、戦う準備をしなければなりません。神の建造のためには材料を必要とし、戦いをするためには武器を必要とします。このすべては石、山々、鉄、銅にかかっています。
わたしたちは、地の上に都と宮が建造され、それらはまさにこれらの材料、すなわち石、鉄、銅で建てられることを覚えていなければなりません。これらの鉱物は、キリストの命の中に、神の建造のための材料としてのもの、また戦いをするための武器としてのものがあることを表徴します。これらのものすべては、やはりキリストの命の豊富のものです。
わたしたちがこの段階に達したかどうかは、キリストに対する経験の量にかかっています。もしわたしたちがキリストを日ごとに生ける水として享受しているだけなら、神の建造がわたしたちの間で実現される点に決して到達することはできません。わたしたちはまだとても若いのです。わたしたちはキリストを生ける水として、小麦として、大麦として、これとして、あれとして享受しなければなりません。わたしたちはキリストをある程度まで享受しなければなりません。こうして主のための建造と敵との戦いがあるでしょう。
これが霊の命の最後の段階です。あなたは石、鉄、青銅の柱を造ることができます。それは実に十分です。神の建造は石、鉄、銅、山を必要とします。これらの材料はすべて神の建造と関係があり、また神の王国と関係があります。
土から石に造り変えられる
わたしたちがキリストにある赤子にすぎず、生ける水を飲んでいるとき、どうして主の建造がわたしたちの間にあることが可能でしょうか? それは不可能です。わたしたちは成長しなければなりません。わたしたちはキリストを経験することによって円熟しなければなりません。わたしたちは石でなければなりません。主は生ける石であり、わたしたちも生ける石でなければなりません。それは彼の建造の材料となるためです。
比喩的に言えば、わたしたちはアダムの中で一かたまりの「土くれ」です。わたしたちは石ではなく、土くれです。主の建造は石で建造されますが、わたしたちは土くれで造られています。一かたまりの土くれとしてのわたしたちが、どうして主の建造の材料となることができるのでしょうか? それは不可能です。わたしたちは土くれから石に造り変えられなければなりません。わたしたちはキリストを実際的に経験し享受することを通して、聖霊によって造り変えられなければなりません。
思いが新しくされることによって、わたしたちは一かたまりの土くれから石に造り変えられます。石になった後、わたしたちは焼かれ圧迫されて、さらに造り変えられます。それは普通の石から宝石へです。新エルサレムで、あなたはほんの少しの土くれも見いだすことはできません。いかなる普通の石も見いだすことはできません。あらゆる石は宝石です。新エルサレムは宝石をもって建造されています。
山と丘
石は常に山と丘と関係があります。わたしたちはいくらかの岩を欲するとき、いくらかの山を持たなければなりません。平地で石を見いだすことはかなり困難です。聖書で山と丘は常に復活と昇天を表しています。それらは地の上に、平地より高く上げられたものです。一かたまりの土くれは、ただ復活の命の中で造り変えられます。すべての霊的な生ける石は復活の命の中にあります。それらはキリストの復活の山に結合された石です。もしわたしたちがみなアダムの命の中で、古い命と性質の中で生きているなら、ただ平地にいます。わたしたちの間に山がないので、わたしたちの間に石はありません。しかしわたしたちは復活の命の中で生き歩いているなら、丘と山の実際を享受しており、そしてこれらの丘と山に伴って必ず石があります。
山と丘は神の家、都、王国を建造するためです。聖書の中の多くの町は、丘と山の上に建てられています。町は国の中心、王国の中心です。旧約で、都は常に国あるいは王国の象徴です。ですから、主の子供たちの間に霊的な丘や山があるときはいつも、自動的にいくらかの石、すなわち家と都を建造するためのいくらかの材料があるのです。神の権威と神の王国がそこにあります。主は死から復活させられたとき、天においても地においても、いっさいの権威が与えられていると告げられました。霊的な権威、天的な権威は常に復活の中にあります。あなたとわたしがキリストの復活の命の中で生き、歩いているなら、わたしたちは天的な権威を持ちます。
召会の権威は絶対に復活の事柄です。二人の兄弟が地方召会の中で大いに復活の中にいるなら、神聖で天的な権威が彼らに託されます。彼らは召会の権威であり、その地方召会の中の山です。彼らと共に復活があります。ですから彼らと共に王国の権威があるのです。
召会の権威は、主イエスと共に十字架につけられることの意味を、復活の中で生きることの意味を知っている聖徒たちにあります。彼らは日常の歩みの中で主の復活の命を経験します。それは彼らにとって単なる教えではなく、実際的な日ごとの享受です。あなたは彼らに会うとき、彼らが山の石であると感じます。彼らは天の権威が託されている者です。彼らは召会の権威です。ここで聖徒たちがそのようであるなら、神の家と神の王国がここにあります。ここで家が建造され、神の王国が堅く立てられます。
(「すべてを含むキリスト」、第 7 章より抜粋)
JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。
さらにお読みください:申命記8:7-9と7節のフットノート1.
7節のフットノート1 良き地、カナンの地は、すべてを含むキリストの満ち満ちた、完全で、究極的な予表です。キリストは三一の神の具体化であり(コロサイ2:9)、すべてを含む、命を与える霊として(Ⅰコリント15:45.Ⅱコリント3:17)、神の民に割り当てられた嗣業として実際化され、彼らの享受となります(コロサイ1:12とフットノート2.2:6-7と6節のフットノート2.ガラテヤ3:14とフットノート3)。7節から9節における良き地の豊富は、キリストの計り知れない豊富のさまざまな面を予表します(エペソ3:8)。それらは、彼の霊の中の信者たちに対する満ちあふれる供給です(ピリピ1:19)。流れ、泉、源泉は、あふれ流れる霊としてのキリストを表徴し(ヨハネ4:14.7:37-39.啓22:1)、谷間と山々は、あふれ流れる霊としてのキリストを、わたしたちが経験するさまざまな種類の環境を表徴します(参照、Ⅱコリント6:8-10)。小麦は、肉体と成ったキリストが、十字架につけられ、葬られて、ご自身を増殖させたことを予表します(ヨハネ12:24)。大麦は、最初に熟する穀物であり(サムエル下21:9)、初穂としての復活したキリストを指します(Ⅰコリント15:20)。ぶどうの木は、キリストがご自身を犠牲としてささげて、ぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけることを予表します(士9:13.マタイ9:17)。いちじくの木は、命の供給としてのキリストの甘さと満足について語っています(士9:11)。ざくろは、命としてのキリストの豊富の豊満、充足、美しさ、表現を表徴します(出28:33-34.列王上7:18-20.雅4:3後半、13)。パンは、命のパンとしてのキリストを表徴します(ヨハネ6:35、48)。オリブの木は、キリスト(ローマ11:17)がその霊で満たされ、その霊で油塗られたことを予表します(ルカ4:1、18.ヘブル1:9)。オリブ油は聖霊を予表し、わたしたちはこの聖霊によって歩いて、神を尊び、またこの聖霊を供給して、人を尊びます(ガラテヤ5:16、25.Ⅱコリント3:6、8.士9:9)。乳と蜜は(6:3)、キリストの良さと甘さを語り出しています(参照、出3:8のフットノート2)。石は、神の住まいを建造する材料としてのキリストを表徴します(イザヤ28:16.ゼカリヤ4:7.Ⅰペテロ2:4)。鉄と銅は、武器を造るためであり(創4:22.サムエル上17:5-7)、敵と戦うわたしたちの霊的戦いを予表します(Ⅱコリント10:4.エペソ6:10-20)。また鉄は、キリストの支配する権威を表徴しており(マタイ28:18.啓19:15)、銅は、キリストの裁く力を表徴します(啓1:15とフットノート1)。銅が採掘される山は、キリストの復活と昇天を表徴します(エペソ4:8とフットノート1)。
神のエコノミーの目標は、単に彼の民を贖い、エジプトで予表されるこの世から救うことだけでなく、良き地で予表されるキリストの中へともたらし、彼らが彼を所有し、彼の計り知れない豊富を享受することでもあります。イスラエルの子たちは地の豊富を享受することによって、宮を建造して、地上での神の住まいとならせることができました。また、エルサレムの都を建造して、地上に神の王国を設立することができました。同じように、キリストにある信者たちは、キリストの計り知れない豊富を享受することによって建造され、キリストのからだ、召会となります。それは、キリストの豊満、彼の表現(エペソ1:22-23)であり、また神の住まい(エペソ2:21-22.Ⅰテモテ3:15)と神の王国です(マタイ16:18-19.ローマ14:17)。究極的には、神の住まいと神の王国は、永遠の世の新エルサレムにおいて究極的に完成し、神の永遠のエコノミーを完成します(啓21:1-3、22.22:1、3)。