呼び求め(ἐπικαλεσάμενος<epikalesamenos>)―使徒22:16
【回復訳】 使徒22:16 そこで今、なぜあなたはためらうのですか?立ち上がってバプテスマされなさい.そして彼の御名を呼び求めて、あなたの罪を洗い去りなさい』。
聖書協会共同訳はここの「epikalesamenos」を回復訳と同じく「呼び求め」と訳しています。その他の翻訳は「唱え」「呼び」「呼んで」などと訳しています。日本語訳聖書の比較はこちらのサイトから参照いただけます。
ギリシャ語
καὶ νῦν τί μέλλεις; ἀναστὰς βάπτισαι καὶ ἀπόλουσαι τὰς ἁμαρτίας σου, ἐπικαλεσάμενος τὸ ὄνομα αὐτοῦ.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
epikaleó: to call upon
Original Word: ἐπικαλέω
Part of Speech: Verb
Transliteration: epikaleó
Phonetic Spelling: (ep-ee-kal-eh'-om-ahee)
Definition: to call upon
Usage: (a) I call (name) by a supplementary (additional, alternative) name, (b) mid: I call upon, appeal to, address.
解説
『ここの主の御名を呼び求めることは、パウロにとって、彼が主の御名を呼び求める信者を多く逮捕したことで犯した罪(複数)を洗い去る手段でした。すべての信者は、パウロが主の御名を呼び求めることを逮捕する者のしるしと考えていたことを、知っていました(使徒9:14、21)。今や彼は主に立ち返りました。アナニヤはパウロに、彼が以前忌み嫌っていたその御名を呼ぶことを命じました。それはパウロにとって、神と、すべての信者たちの前で、主の御名を呼び求める者を迫害し、逮捕することで犯した罪を、洗い去るためでした。彼はバプテスマの時に、これをしなければなりませんでした。それは、彼の以前の実行とは正反対の行動であり、こうしてパウロは、迫害していた主を公に告白しました。』(回復訳聖書 使徒22:16フットノート2)
『「彼の」はここでは意義深く、特にパウロが憎み、迫害した方の御名を指しています(8節)。』(回復訳聖書 使徒22:16フットノート3)
そして、主の御名を呼び求める者はすべて救われる』。
使徒2:21
主の御名を呼び求めることは、新約で始まった新しい実行ではありません。それは創世記第4章26節で、人類の第三世代であるエノスから始まりました。それは続いてヨブ(ヨブ12:4.27:10)、アブラハム(創12:8.13:4.21:33)、イサク(創26:25)、モーセとイスラエルの子たち(申4:7)、サムソン(士15:18.16:28)、サムエル(サムエル上12:18.詩99:6)、ダビデ(サムエル下22:4、7.歴代上16:8.21:26.詩14:4.17:6.18:3、6.31:17.55:16.86:5、7.105:1.116:4、13、17.118:5.145:18)、詩篇の作者アサフ(詩80:18)、詩篇の作者ヘマン(詩88:9)、エリヤ(列王上18:24)、イザヤ(イザヤ12:4)、エレミヤ(哀3:55、57)、その他の人たち(詩99:6)によって行なわれました。彼らはみな旧約時代に、主の御名を呼び求めることを実行しました。またイザヤは神を追い求める者たちに、神を呼び求めるよう命じました(イザヤ55:6)。異邦人でさえ、イスラエルの預言者たちが常に神の御名を呼び求めたことを知っていました(ヨナ1:6.列王下5:11)。北から神によって起こされた異邦人も、彼の御名を呼び求めました(イザヤ41:25)。神の民が彼を呼び求めることは、神の命令であり(詩50:15.エレミヤ29:12)、神の願いでした(詩91:15.ゼパニヤ3:9.ゼカリヤ13:9)。それは、神の救いの泉から飲む喜ばしい方法(イザヤ12:3-4)、神の中で自ら楽しむ(ヨブ27:10)、すなわち神を享受する喜ばしい方法です。ですから、神の民は、彼を日ごとに呼び求めなければなりません(詩88:9)。ヨエルが新約のヨベルについて預言したのは、そのようなヨベルの実行でした(ヨエル2:32)。
新約聖書では、主の御名を呼び求めることは、ここで最初に、ペンテコステの日に、ペテロによってヨエルの予言の成就として述べられました。この成就は、彼の選びの民が彼の新約のヨベルにあずかるために、神が彼らの上にすべてを含む霊をエコノミー上において注がれたことと関係があります。ヨエルの預言と神の新約のヨベルのためのその成就には、二つの面があります。神の側で、彼は復活したキリストの昇天の中で、彼の霊を注ぎ出されました。わたしたちの側で、わたしたちは昇天した主の御名を呼び求めます。主はすべてを成就し、すべてに到達し、すべてを獲得された方です。わたしたちキリストを信じる者が、すべてを含むキリストと、彼が成就し、到達し、獲得したすべてにあずかり、彼を享受するために、主の御名を呼び求めることは絶対に必要です(Ⅰコリント1:2)。神の新約エコノミーの中で、これは、わたしたちの完全な救いのために、わたしたちが手順を経た三一の神を享受することができる主要な実行です(ローマ10:10-13)。初期の信者たちは、これを至る所で実行し(Ⅰコリント1:2)、未信者たち、特に迫害者たちには、キリストを信じる者たちの目立つしるしとなりました(9:14、21)。ステパノは迫害を受けた時、主の御名を呼び求めました(7:59)。その実行は、彼を迫害したサウロに強い印象を与えたことでしょう(7:58-60.22:20)。やがて不信のサウロは、彼らが主の御名を呼び求めたことをしるしとして、信者たちを迫害しました(9:14、21)。サウロが主に捕らえられた直後、彼をキリストのからだの交わりへともたらしたアナニヤは、主の御名を呼び求めてバプテスマされ、そのように呼び求める者となったことを人に示すようにと、彼に命じました。テモテへの第二の手紙第2章22節で、パウロはテモテにあてた言葉の中で、初期には主を追い求める者たちがすべて、そのように呼び求めるのを実行したことを示しました。パウロが若い同労者テモテに同じことを行なうよう命じたのですから、疑いもなくテモテもこれを実行した一人でした。それは、テモテが彼と同じように主を享受するためでした。
「呼び求める」のギリシャ語の言葉は、「上に」と「(名を)呼ぶ」から成っています。こうして、それは聞こえるように叫び、ステパノが行なったように、大声でさえ呼ぶことです(7:59-60)。名はパースンを意味します。イエスは主の御名であり、その霊は彼のパースンです。わたしたちが「主イエスよ」と呼ぶ時、その霊を受けます。
使徒2:21フットノート1、2
補足
主の御名を呼び求めることは、パウロが主の御名を呼び求める信者たちを多く逮捕したという、彼の罪を洗い去る手段
第22章14節から16節によれはアナニヤはパウロに言いました、「わたしたちの父祖の神はあなたが彼のみこころを知り、あの義なる方を見て、彼の口から声を聞くように、あらかじめ定められました.それは、あなたが見聞きした事について、すべての人に対して彼の証し人となるためです。そこで今、なぜあなたはためらうのですか?立ち上がってバプテスマされなさいそして彼の御名を呼び求めて、あなたの罪を洗い去りなさい」。ここで「彼の」は意義深いのです。それは特に、パウロが憎み、迫害した方の御名を指しています(使徒22:8)。
「呼び求め」と訳されたギリシャ語は「エピカレオー(epikaleó)」です。この言葉は「エピ(epi)」、上にと「カレオー(kaleó)」、名を呼ぶから成っています。すなわち、ステパノが第7章59節から60節で行なったように、声を出して、大声でさえ呼ぶことです。
第22章16節で主の御名を呼び求めることは、パウロが主の御名を呼び求める信者たちを多く逮捕したという、彼の罪を洗い去る手段でした。信者たちはみな、主の御名を呼び求めることを逮捕すべき者たちのしるしと、パウロが考えていたことを知っていました(9:14、21)。今や彼は主へと立ち返りました。主を呼び求める者たちを迫害し逮捕したことでの彼の罪を、神の御前だけでなくすべての信者たちの前でも洗い去るために、アナニヤは彼に、彼が罪定めした同じ呼ぶことを、彼が迫害した主を公に告白する彼のバプテスマの時に行なうよう命じました。
(新約ライフスタディ 使徒行伝(二)第六〇編より抜粋)