第10章 どのようにしてその地を所有するか(2)― ささげ物と祭司の体系によって
ささげ物
幕屋が建てられた後、わたしたちは次にささげ物を取り扱わなければなりません。さまざまなささげ物すべてにおいて、キリストはわたしたちにとって何と豊富でしょう! ささげ物は五つあります。すなわち、全焼のささげ物、穀物のささげ物、平安のささげ物、罪のためのささげ物、違犯のためのささげ物です。それらはすべてキリストです。わたしたちはその証しを扱い、キリストの表現に触れようとするときはいつも、もう一度キリストをささげ、キリストを適用しなければなりません。
わたしたちは主の御前に忠信で正直であるなら、この幕屋、この証しに触れに来るとき、彼の霊がわたしたちのすべての罪深さとすべての違犯を感じさせます。わたしたちは、自分が何をしたかを感じ、こう言うでしょう、「おお、主よ、赦してください。清めてください。あなたはわたしの贖い主として十字架上で死なれました。ですからもう一度あなたをわたしの違犯のためのささげ物として適用します」。わたしたちはキリストをそのように適用するときはいつも直ちに、赦され清められたと感じます。わたしたちは良心に平安があります。わたしたちは主と、またからだと良い交わりを持ちます。これがキリストをわたしたちの違犯のためのささげ物として適用することです。
時には、わたしたちは違犯していないかのようです。わたしたちは違犯したと感じませんが、さらに深い感覚があります。わたしたちは内側深くに、違犯よりさらに罪深いものがあることを感じます。それは単数の罪、罪深い「性質」です。わたしたちはすでに救われ、神に対しても互いに対しても平安がありますが、それでもわたしたちの内側に罪深い性質があります。罪はわたしの内側に住んでいます。わたしは複数の罪についてではなく、単数の罪について語っているのです。わたしは自分が行なうことを憎みます。それを行なっているのはわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。邪悪ですが、力があり、生きているもの、罪と呼ばれるものがわたしの内側にあります。それはわたしを征服することができ、わたしを打ち破ることができ、わたしが忌み嫌う事を行なわせることができます。それは生きている性質であり、邪悪な者の性質です。このためにささげ物、罪のためのささげ物があります。
主はまた平安のささげ物でもあります。日ごと、また瞬間ごとにさえ、わたしたちは彼をわたしたちの違犯のためのささげ物、またわたしたちの罪のためのささげ物として享受するとき、また彼をわたしたちの平安のささげ物として享受します。彼を通して、また彼の中で、わたしたちは神に対して平安を持ち、またわたしたちの兄弟姉妹に対して平安を持ちます。キリストご自身がわたしたちの平安です。わたしたちは彼を、神に対するわたしたちの平安として、また人に対するわたしたちの平安として享受します。彼はとても甘く、とても満足させてくださいます。わたしたちはみな神の臨在の中で彼を享受し、神と共に彼を享受することができます。これは平安のささげ物としてのキリストです。
ときにはわたしたちは、キリストを穀物のささげ物として適用しなければなりません。多くの時わたしたちは彼を違犯のためのささげ物として、また罪のためのささげ物として適用し経験した後、直ちに彼を穀物のささげ物として適用するでしょう。わたしたちはただキリストを享受します。わたしたちは彼の地上の生活を享受します。彼はいかに完全で、いかに細やかで、いかに純粋で、いかに霊的であったことでしょう! わたしたちは彼をそのような方として享受します。わたしたちは言います、「主よ、何とわたしたちはあなたを神への穀物のささげ物として享受することでしょう」。これがキリストを穀物のささげ物としてささげる方法です。
わたしたちはまた多くの時、キリストを全焼のささげ物として適用しなければなりません。わたしたちは言わなければなりません、「おお、主よ、あなたがいかに完全にご自身を犠牲として神にささげて神のみこころを行ない、神を満足させ、神のために絶対的に生活されたかを、わたしは認識しています。あなたをそのような方として享受します」。多くの時、主の食卓でわたしたちはこのような経験をします。わたしたちはキリストを穀物のささげ物として、また全焼のささげ物として適用します。わたしたちは、主がここにおられた時のあの驚くべき生活を見ます。わたしたちは十二歳の時の主を見ます。ナザレの貧しい家庭の大工としての主を見ます。彼が神のための務めの中で出て来たとき、人々の前でどのように振る舞われたか、また人々をいかに親切に、いかに優しく、いかにへりくだって、いかに聖く扱われたかを見ます。わたしたちは彼をわたしたちの享受として、わたしたちの穀物のささげ物として、神の満足のためのわたしたちの全焼のささげ物として適用します。わたしたちは主に言うことができます、「あなたはこの地上で絶対的に神のために生きられました。あなたは全焼のささげ物です。わたしはあなたをわたしの享受また神の満足として、ここであなたの食卓にいる時だけでなく、一日中、適用します。時には朝に、時には夕に、あなたを穀物のささげ物また全焼のささげ物として享受します」。
主は、わたしたちが享受するこれらすべてのささげ物です! わたしたちはキリストを違犯のためのささげ物、罪のためのささげ物、平安のささげ物、穀物のささげ物、全焼のささげ物として適用すればするほど、ますます幕屋の中にいると感じます。
祭司の体系
レビ記の最初の部分のささげ物のすぐ後に、わたしたちは祭司の体系へと導き入れられます。アロンと彼の子たちはみな飾られ、資格づけられて神に祭司として仕えました。わたしたちはこれを持たなければなりません。わたしたちはキリストをわたしたちのアロンとして、キリストをわたしたちの大祭司として持たなければならず、わたしたちはみな彼の子たち、主に仕える祭司でなければなりません。これはさらに多く享受し、さらに多く経験し適用することです。あなたは集会に来て主を享受するとき、奉仕し、機能し、務めをしなければなりません。あなたが主に対して誠実で忠信であるなら、何の務めをしなければならないかを知るでしょう。あなたは祭司です。
もしあなたが祭司として仕えていないなら、決してすべてを含むキリストを所有することはできません。あの良き地に入りたいと思うなら、あなたは祭司でなければなりません。その地に入る前に、主の子供たちの間に祭司の体系がなければなりません。おそらくあなたは、イスラエルの子たちの多くは祭司でなかったと言うでしょう。しかし彼らがみな祭司の体系によって益を得ていたことを、あなたは承認します。いずれにしても、彼らの間に祭司の体系がありました。わたしたちの間にも祭司の体系がなければなりません。
今日、祭司は、キリストの中で、キリストによって生きてキリストを現している者たちです。あなたが何を行なうか、あなたの職業が何であるかは重要ではありません。本質的で基本的な事は、あなたがキリストの中で生き、キリストの中で歩き、キリストを享受し、キリストを経験し、キリストをあなたの生活のすべてに適用することです。これがあなたを祭司にします。モーセの所に連れて来られたときのアロンの子たちを考えてください。モーセは彼らの服を脱がせて祭司の衣を着せました。祭司の衣はキリストの現れです。あなたの上で現されるキリストが祭司の衣です。祭司が食べる物はキリストを表し、彼らが着る物はキリストを表し、彼らの生活すべてがキリストを表します。祭司となるために、あなたはキリストの中で生き、キリストをもって仕えなければなりません。あなたは何を行なうときも、キリストの中で行ないます。あなたは祭司の衣の中にあります。
あなたが祭司であるなら、あなたについて普通でないものがあり、あなたは明確な見分けがつく特徴を持っています。あなたはキリストで装備され、キリストで飾られています。キリストがあなたの衣です。あなたはキリストをそのように経験しなければなりません。そのときあなたは祭司です。あなたは何を処理しても、キリストをもって処理します。あなたは何を行なっても、キリストをもって行ないます。あなたはキリストを現します。あなたはキリストをあなたの家族に供給します。あなたは集会に来るとき、多くの事を供給することができます。あなたが何を行なっても、すべてが務め、キリストの中で、キリストをもって、キリストによって満たされた務めです。おそらくあなたは特別集会に来るゲストのために食物の準備をするでしょう。それもその聖霊で満たされなければならない務めです。使徒行伝では、食卓に仕える人たちが、その霊で満たされていなければならないと告げられています。食事の準備をするのは容易な事柄ではありません。それはキリストを適用し、キリストを供給する絶好の機会です。
祭司が行なう多くの務めがあります。あなたは来て集会でここに座ることができ、その集会で公に目立つ役割をしていないかもしれませんが、それでも瞬間ごとに力強い優勢な務めを持っています。
これが真の務めです。それはすべて、あなたがどれだけキリストの中で生き、キリストの中で歩き、キリストをあなたの食物、衣服、すべてとするかにかかっています。
何とキリストの多くの項目を、わたしたちは経験しなければならないことでしょう! 彼は何と豊富、何とすばらしく豊富なことでしょう! わたしたちは彼をさらにさらに経験しなければなりません。今やわたしたちには幕屋と共に箱があるだけでなく、ささげ物と祭司の体系があります。わたしたちはその地に入るようさらに資格づけられていますが、高ぶってはなりません。このすべての事を日ごとに実行し、それらを実際の中で経験しなければなりません。キリストを小羊、過越の祭り、日ごとのマナ、生ける水のある岩、幕屋と共にある箱、あらゆる種類のささげ物、真の祭司の体系の装備と供給すべてとして享受することによって、わたしたちはその良き地に入るように資格づけられるのです。
(「すべてを含むキリスト」、第 10 章より抜粋)
JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。
さらにお読みください:レビ1章1-3節.2章1節.3章1節.4章2-3節.5章5-6節.出エ40章17節とレビ1章2節のフットノート1
2章1節 さて、だれかが穀物のささげ物をささげ物としてエホバに献げるとき、その人のささげ物はきめの細かい小麦粉によるものでなければならない.彼はその上に油を注ぎ、その上に乳香を加えなければならない。
3章1節 もし、だれかのささげ物が平安のささげ物の犠牲で、牛の群れから献げるのであれば、雄であれ雌であれ、傷のないものをエホバの御前に献げなければならない。
4章2-3節 「イスラエルの子たちに語って言いなさい、『エホバが、してはならないと命じられたことで、もしだれかが意図しないで罪を犯して、それらのうちの一つを行なうなら、もし、油塗られた祭司が罪を犯して、民を罪に陥らせるなら、彼は自分が犯した罪のために、傷のない群れの雄牛一頭を罪のためのささげ物として、エホバに献げなければならない。
5章5-6節 彼はこれらの事の一つで有罪となるなら、犯した罪を告白しなければならない.そして、犯した罪のために違犯のためのささげ物として、羊またはやぎで、群れからの雌一頭をエホバに持って来て、罪のためのささげ物としなければならない.祭司はその人の罪について、彼のために罪を覆わなければならない。
出エ40章17節 40:17 さて、第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋は建て上げられた。
出エジプト記が幕屋の設立で終わっており(出第40章)、レビ記がささげ物で始まっているのは(第1章―第7章)、二つの書の直接の継続を暗示します。幕屋とささげ物はいずれもキリストの予表です。キリストは肉体と成ることを通して来て、幕屋となりました(ヨハネ1:14)。この同じキリストはまた、神の小羊(ヨハネ1:29)、すべてのささげ物の総合計、集大成です(ヘブル10:5-10)。キリストは肉体と成って来て、神をわたしたちにもたらし(ヨハネ1:1―13:38)、十字架と復活を経過してわたしたちを神にもたらし(ヨハネ14:1―21:25)、神をわたしたちと一にし、わたしたちを神と一にしました。幕屋は、わたしたちが神と接触し、神を経験し、神の中に入り、神と結合するようにする、キリストにある神を表徴します。ささげ物は、わたしたちが享受し、さらには食べ、消化し、吸収して(ヨハネ6:53-58)、神とミングリングされるようにする、キリストにある神を表徴します。すべてのささげ物の実際としてのキリストを享受する道は、彼と接触し、実際の霊としての彼を取り入れることです(ヨハネ6:63.14:16-18、20.Ⅰコリント15:45)。
レビ記によれば、五種類の主要なささげ物があります。すなわち、全焼のささげ物(1:1-17)、穀物のささげ物(2:1-16)、平安のささげ物(3:1-17)、罪のためのささげ物(4:1-35)、違犯のためのささげ物(5:1―6:7)です。これらのささげ物の機能は、(1)罪のための犠牲として、神と彼の民の間の状況を和らげることによって、神の民のために罪を覆うこと、(2)神を喜ばせる礼物、(3)神と彼に仕える者(祭司)のための食物です。