否み(ἀπαρνησάσθω<aparnēsasthō>―マタイ16:24)
【回復訳】 それから、イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。
【KG訳】 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
【SK訳】 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
【SKD訳】 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
ギリシャ語
Τότε ὁ Ἰησοῦς εἶπεν τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ Εἴ τις θέλει ὀπίσω μου ἐλθεῖν, ἀπαρνησάσθω ἑαυτὸν καὶ ἀράτω τὸν σταυρὸν αὐτοῦ, καὶ ἀκολουθείτω μοι.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
aparneomai: to deny
Original Word: ἀπαρνέομαι
Part of Speech: Verb
Transliteration: aparneomai
Phonetic Spelling: (ap-ar-neh'-om-ahee)
Definition: to deny
Usage: I deny, disown, repudiate (either another person or myself), disregard.
解説
『自分を否むとは、自分の魂の命、天然の命を失うことです(マタイ16章25節.ルカ9:24)。』(マタイ16:24フットノート 1)
『マタイ16章23節から25節で、三つの事が互いに関係し合っています。それは、「思い」、「自分」、「魂の命」です。思いは自己(自分)の表現であり、自己は魂の命の具体化です。魂の命は自己の中に具体化され、自己によって生かし出されます。わたしたちの自己は、思い、思想、観念、意見を通して表現されます。思いを神の事柄にではなく、人の事柄に付ける時、わたしたちの思いは自ら行動し、それ自身を表現する機会を得ます。これが、ペテロに起こったことでした。ですから、続く主の言葉は、ペテロが「自分」を否まなければならないこと、すなわち自分の魂の命を救うのではなく、それを失わなければならないことを言われたのです。魂の命を失うことは、自己を否むことの実際です。これが十字架を負うことです。』(マタイ16:24フットノート 2)