わたしたちの魂の救い「すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだす」:聖書の重要な真理【救い】(20)

 聖書はまたわたしたちの魂の救いについて語っています。人々は通常、人を二つの部分、すなわち魂と体に分けますが、聖書の中で神は人には三部分、すなわち霊と魂と体があると告げています(Iテサロニケ五・二三)。わたしたちにはこれら三部分があるので、わたしたちには三種類の救いがあります。わたしたちが信じた時、わたしたちの霊は生かされました。わたしたちは聖霊によって、わたしたちの再生を通して永遠の救いを得ました。その時、神はわたしたちの罪を赦し、わたしたちの死んでいた霊を生かしました。わたしたちの体の救いは主が再来する時に起こります。その時、主はわたしたちの体を変貌させ、ご自身の偉大な力を用いて、わたしたちの卑しい体を栄光の体へと変貌させます。わたしたちの魂の救いは、わたしたちが千年王国に入って主と共に王として支配するときに得られます。わたしたちの魂が主と共に王国の喜びを享受するとき、それはわたしたちに対する主の褒賞となります。

【わたしたちの魂の救い】「すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだす」(マタイ16:25、参照、24-27節、10:37-39)

マタイ16:25 なぜなら、すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだすからである。

 聖書の原則によれば、ここで語られている救いは、永遠の救いを指しているのではありません。なぜなら、永遠の救いはわたしたちが代価を払うことを要求せずに、信仰を通して、無代価で得られるからです。これらの節における救いは、自分の魂の命を失うことから来ます。それは、わたしたちが進んで自分の魂を犠牲にするという代価を払うことによって得られます。さらに、永遠の救いはわたしたちの霊を生かすことと関係がありますが、ここで語られている救いは、魂の命を見いだすことと関係があります。この箇所の文脈から「救う」は、主が栄光の中で再来する時に褒賞を受けることを指しています。なぜなら、わたしたちは進んで自分自身を否み、自分の十字架を負い、主に従い、主のために自分の魂の命を失うからです。新約聖書によれば、この褒賞は、わたしたちが千年王国へと入ること、わたしたちの主の喜びを享受することです(25:21)。喜びを享受することは特に魂と関係があります。わたしたちがこの時代に進んで自分の享受を失わないなら、今日、自分の魂の命を救いますが、将来において自分の魂の命を失います。すなわち、わたしたちは千年王国において自分の魂の享受を失います。わたしたちが自分の魂の命を失う程度にまで、この時代に進んで主のために自分の魂の享受を犠牲にするなら、将来において自分の魂の命を見いだします。すなわち、わたしたちは主が再来するときに、褒賞を得て、わたしたちの魂は主と共に千年王国の喜びを享受します。これが魂の救いです。主はまたマタイによる福音書第10章39節においてこの事柄について語っています。

 わたしたちの魂は、わたしたちが喜びと幸いを経験するところだけでなく、また苦難を経験するところでもあります。わたしたちが喜びを経験しても苦難を経験しても、これらは特に魂の中で感じられます。魂によって感じられる苦難は実際的に人に苦難の感覚を与えます。わたしたちが主を信じ、主に仕え、主に従うゆえに他の人たちから受けるすべてのあざけり、迫害、危害は、わたしたちの魂を苦しませます。例えば、ある人たちは主を愛したいのですが、彼らの配偶者は同意せず、彼らに困難を与えます。他の人たちは神に仕え、主の道を取りたいのですが、彼らの両親や子供は彼らに反対し、彼らの友人は彼らを拒絶し、最も近い親族や隣人でさえ彼らを迫害します。これらは魂にとって苦難です。もしわたしたちが、これらの苦難を避けたいので主を愛さず、主に従わないなら、わたしたちは自分の魂の命を救い、苦難を避けます。しかしながら、このことはわたしたちに魂における王国の享受を失わせます。わたしたちが主のために進んでこれらの苦難に耐えるなら、わたしたちは自分の魂が悩まされ、取り扱われ、死に渡され、失われ、主のために犠牲になるようにします。これはわたしたちの魂の救いとなり、それは将来においてわたしたちの魂が主の喜びを享受することができるようにします。

 わたしたちの魂はわたしたちの自己にほかなりません。わたしたちは進んで自分の自己を否み、自己を救わずにそれを死に渡すなら、自分の魂の命を救うのではなく失います。わたしたちは進んでこのことを行なうなら、今日わたしたちの霊の中で主の命を経験し、将来においてわたしたちの魂の中で主の喜びを享受します。将来においてわたしたちは魂の中で主の喜びを享受するとき、自分の魂の命を見いだし、自分の魂の救いを得ます。この将来の救いは、わたしたちが今日、自分の魂を苦しませ、悩ませ、死に渡しさえすることによって、自分の魂の命を失うように要求します。

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