第9章 どのようにしてその地を所有するか(1)― 小羊、マナ、箱、幕屋によって
どのようにしてそこに入って享受するかを見なければならない
キリストはわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ることを願われます。そしてわたしたちは力に満たされて、すべての聖徒たちと共に、キリストの無限の広大さを理解することによって会得し、獲得します(エペソ3:17-18)。
いったん幕屋が建て上げられると、主の栄光が直ちにそれを満たしました。主の栄光は、人の目の前に現された主の臨在です。人の目、イスラエルの子たちの目はその時、栄光の中の神の臨在を見ました(出33:14-15.申12:10.出40:17、21、34-35)。
今わたしたちは、カナンの地を所有する方法を見なければなりません。わたしたちはどのようにしてそこに入って享受するかを見なければなりません。
団体の事柄
まず、この地を所有するのは個人の事柄ではありません。どの人も単独で所有することは絶対に不可能です。これはからだの事柄です。それはすべての聖徒たちと共に会得されるべきです。キリストはあまりにも大きいのです。彼の広大さは無限で、彼の豊富は計り知れません。この原則は主によって堅く確立されています。良き地に入ってそれを占有することは個人のためではなく、団体のためです。主は決してイスラエルの子たちに一人ずつ徐々に、単独で、個人的にヨルダンを渡ってその地に入るようにと求められませんでした。一人が今月に入り、別の一人が翌月に入り、さらに別の一人がその次の月に入ることは、決して神の思いではありませんでした。これは不可能であり、神聖な原則に反しています。それは団体によって所有されなければなりません。それは個人的にではなく、団体的に入らなければなりません。
小羊
当初、イスラエルの民は過越の小羊を享受しました(出エ第12章)。それはキリストの予表でした(Ⅰコリント5:7)。小羊はキリストであり、その地もキリストです。そこで、一見して、ふたりのキリスト、より小さいキリストとより大きいキリスト、過越の小羊のような小さいキリストと、カナンの地のような大きいキリストがあります。
キリストはわたしたちの贖いのための小羊です。わたしたちはまず彼によって贖われなければなりません。こうしてはじめて、すべてを含む方としての彼を獲得することができます。わたしたちは彼を過越の小羊として受け入れなければなりません。これが、わたしたちがカナンの地に入るために始めなければならない場所です。わたしたちは過越を持たなければなりません。わたしたちはキリストを神の小羊として経験しなければなりません。「見よ、神の小羊」が、ヨハネによる福音書の初めにありますが(1:29)、その書の結びで、キリストは彼の弟子たちによって所有される無限の方です。
過越には小羊だけでなく、またパン種のないパンと苦菜もあります(出12:8)。ここに再び二種類の命があります。小羊は動物の命に属し、パン種のないパンと苦菜は植物の命に属します。ヨハネによる福音書第6章で、主イエスはこの二つの命を一つに組み合わされました。彼は、「わたしは命のパンである」(35節)と言われました。パンは、小麦か大麦でできたもの、植物の命に属するものです。主は宣言されました、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ.……わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物である」(54-55節)。言い換えれば、命のパンは彼の肉です。パンは植物の命であり、肉は動物の命です。そしてこの章で主ご自身がこの二つを共に結び付けておられます。わたしたちはキリストを、生む力、増殖する強さのある贖う小羊として享受することによって、始めなければなりません。わたしたちは過越の小羊を、パン種のないパンと苦菜と共に取らなければなりません。
マナ
わたしたちは彼を小羊として享受した後、続けて彼をマナ、すなわち日ごとの食物として享受します。
マナはある種の実のようであり、その味は新鮮な油と蜜のようでした(民11:7-9.出16:31)。ですから、二つの命が共にミングリングされています。マナの外観はブドラクのようでした。ブドラクの正しい意味は真珠です。啓示録第21章で、真珠が神の建造の構成要素の一つであることを見ます。ですから、マナは真珠のように、神の建造のための材料として造り変えられたものを予表します。ブドラクは創世記第2章で使われている言葉です。その箇所で命の木が出てきて、また川があり、その流れにはいくつかの尊い材料があり、その一つがブドラクです。わたしたちは命の木を取って命の水を飲むとき、真珠、すなわち神の建造のための造り変えられた材料が生み出されます。ですからマナは、このすべての性質(植物の命の性質、動物の命の性質、造り変えられた命の性質)すべてを伴う物質です。
箱
キリストを享受することは、過越の小羊から開始して、天からのマナをもって日ごとに継続しますが、わたしたちは前進して彼を箱、すなわち幕屋に納められ、覆われた箱として経験しなければなりません(出25:10-22)。箱は神の証しです。神の証しはまさに神の現れ、神の表現です。箱の中には十戒を伴う板がありました。
わたしたちは神を、十戒によって知ります。ここに「十の言葉」(出34:28のフットノート)があって、神の描写を与えています。彼はねたむ神、聖なる神、愛の神、義の神、信実な神です。十戒は、隠れた神の描写、表現、現れです。
これらの十戒は箱の中へと置かれました。これは、神がご自身をキリストの中へと置かれたことを予表します。十戒は神の証しであり、証しの箱はキリストです。ですから、神の豊満はキリストの中に住んでいます。
箱は明らかに、二つの性質を持つキリストの予表です。それは木で造られ、金で覆われていました。木は人の性質であり、金は神聖な性質です。それは肉体の中で神聖な性質とミングリングされたキリストの絵です。彼は人の性質を持ち、同時に神の性質を持っておられます(人の性質と神聖な性質)。彼は箱ですが、彼の内側は神ご自身です。十戒が箱の中へと入れられたように、神であるすべてがキリストの中へと入れられました。箱が「証しの箱」と呼ばれたように、キリストは神の現れまた証しです。
幕屋
この箱は幕屋の内側に納められています。十戒が箱の中に納められており、そして箱は幕屋の内側に納められています(出40:20-21)。幕屋は箱の拡大、箱の増し加わりです。箱は木で造られ、金で覆われており、幕屋の大部分は同じ材料でできています。すなわち金で覆われた木です(出26:15-30)。ですから、幕屋は箱の拡大です。箱が拡大されて幕屋になります。幕屋は同じ様式で、また同じ材料で造られており、さらに多くのキリストで構成され、さらに多くのキリストを内側に含んでいます。
幕屋の上に四層のおおいがありました(出26:1-14)。これは、キリストが被造物の一つになられたことを意味します。なぜなら四は被造物を表徴する数であるからです。この四層のおおいの最も外側のものはじゅごんの皮で、風、雨、太陽の熱に対する強力な保護です。じゅごんの皮の下に赤く染めた雄羊の皮があり、それはキリストがわたしたちの罪のために死んで血を流されたことを表徴します。そしてその下にやぎの毛の幕があり、それはキリストがわたしたちのために罪とされたことを表徴します。最も内側のおおいは亜麻布でできていて、とても美しく、とても良く、栄光に満ちており、そこにケルビムが織り出されています。このすべてのおおいは意義に満ちており、多くの説明を必要とします。それらはすべてキリストと関係があります。
あなたは内側から、彼の栄光を見ます。外側からは、彼の低さ、彼のへりくだり、彼の単純さを見ます。あなたは彼の強さと彼の忍耐力を見ますが、麗しさはありません。これがイエス、人に軽べつされた、低い人です。しかし内側で彼は栄光のキリストです。
わたしたちはそのようなキリストで覆われています! 幕屋の寸法によれば、おおいを形成するのに十枚の幕が必要とされます。ですから、最も内側の、細糸の亜麻布のおおいは十枚の幕でできていました。しかしやぎの毛のおおいは十一枚の幕でできていました。それは五プラス五ではなく、五プラス六であり、六は人を指し、罪を含みます。こうして、それは、キリストがわたしたちのために罪とされたことを表徴します。最も内側の層は栄光のキリストです。第二は、わたしたちのために罪とされたキリストです。第三は、死んで血を流したキリストです。第四の最も外側の層は、へりくだって、低い人になられたキリストです。このキリスト、この四重のキリストがわたしたちを覆っています。何というおおい、何という保護、何という安全保障でしょう!
この幕屋の中で、キリストはとても多くの枠板と結合されています。わたしたちは木の枠板、人の肢体です。あなたは一つの枠板であり、わたしはもう一つの枠板です。箱はそのような幕屋に納められており、幕屋は、わたしたちと結合され、そしてわたしたちすべてを神聖な性質の中で結合しているキリストです。それは、すべての枠板が金で結合されていたようにです。少なくとも四十八枚の枠板があり、すべて金で覆われ、金の環と横木で結合されていました(出26:26-29)。もしわたしたちが金を取り除いたなら、四十八枚の枠板はばらばらになります。一つも結合されないでしょう。わたしたちは肉の中で結合されるのではなく、決してそのように結合されることはできません。神聖な性質がわたしたちを結合します。金が結合するものです。金はわたしたちの間の一です。
(「すべてを含むキリスト」、第 9 章より抜粋)
JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。
さらにお読みください:出エ第12章と15節のフットノート2.16:31とフットノート1.25:10-22と10節のフットノート3.第40章と3節のフットノート1
12:15フットノート2 過越の祭りで、小羊はパン種のないパンと共に食べられました(8節とフットノート2)。過越の継続において、パン種のないパンを七日間(完全な行程の時間)食べることは、わたしたちのクリスチャン生活全体が、わたしたちがキリストを受け入れて救われた時から、あらゆる罪深い事物を除き去ることによって、わたしたちの享受を持続すべきであることを表徴します。パン種のないパンの祭りの七日間で、家にパン種があってはならず(19節)、パン種はイスラエルの民の間に見られてはなりませんでした(13:7)。これは、わたしたちに全く罪がないのは不可能であっても、見られるどんな罪も除き去らなければならないこと、すなわち、わたしたちが気づく罪を放棄しなければならないことを表徴します(参照、ヘブル12:1)。現された罪を対処することは、パン種のないパンの祭りを守ることです(Ⅰコリント5:7-8)。暴露された罪をいったん容認するなら、わたしたちは神の民の交わりの享受を失うでしょう(19節.Ⅰコリント5:13)。罪を除き去る唯一の道は、パン種のないパンで表徴される、十字架につけられ、復活した、罪のない命としてのキリストを、日ごとに食べることです。
16:31フットノート1 マナの特徴は、神の民の天的食物としてのキリストの特徴を描写します。マナが細かかったことは(14節)、キリストが均質で均衡がとれ、十分に小さくなって、わたしたちが食べることができることを示します。丸いとは(14節)、わたしたちの食物として、キリストが永遠で、完全で、満ち満ちており、不足や欠陥がないことを示します。白いとは(31節)、キリストが清く純粋で、何の混合もないことを見せています。霜のようであるとは(14節)、わたしたちの天的食物としてのキリストが、わたしたちをさわやかにし新鮮にするだけでなく、わたしたちの内側で消極的なものを殺すことを表徴します。コエンドロの種のようであるとは(31節)、キリストが命に満ち、わたしたちの中で成長して増殖することを示します。固いのは(人々が「二つのひきうすでひくか、うすでつくかして、鍋で煮」るという事実で暗示される―民11:8)、わたしたちがマナとしてのキリストを集めた後、日常生活の状況と環境の中で彼を「ひき、つき、煮」ることによって、彼を食べる備えをしなければならないことを表徴します。外観がブドラクのようであるとは(民11:7)、キリストの明るく透明であることを示します。その味は油で焼いた平らなパンの味のようであったとは(民11:8)、キリストの味わいに聖霊のかぐわしさがあることを表徴します。その味は蜜を入れて作られた極薄のパンのようであったことは(31節)、キリストの味わいの甘さを表徴します。平らなパンを作るのに良いことは(民11:8)、キリストがきめの細かい平らなパンのように、養いが豊富であることを示します。
25:10フットノート3 契約の箱の寸法は、神の建造の数である三と五の数の半分です(参照、創6:15のフットノート2)。これは、契約の箱が証しであり、さらに半分があって全体的な単位、満ち満ちた証しとなる必要があることを表徴します(申17:6.19:15.マタイ18:16.19:5-6前半)。これは、契約の箱によって予表されるキリストが、彼の配偶者、彼の花嫁としての召会を必要とし、こうして人性における満ち満ちた証しとなることを暗示します(エペソ5:22-32.3:21とフットノート)。
40:3フットノート1 幕屋の中に入れられた器具の第一の項目は契約の箱であり(20-21節)、契約の箱が幕屋とその器具の中心的な項目であったことを示します。大部分のクリスチャンは祭壇における救いの経験に注意しますが、出エジプト記が啓示するのは、証しの箱を証しの幕屋の中に持つことが神の意図であるということです。最終的に、幕屋の中の契約の箱は、永遠の幕屋、すなわち新エルサレムにおいて究極的に完成し、契約の箱、すなわち贖うキリストを中心とします(啓21:2-3.22:1)。神の永遠の目標は、新エルサレムを幕屋と契約の箱の究極的な成就として持つことです。