第11章 どのようにしてその地を所有するか(3)― 支配する原則によって
出エジプト記とレビ記において、わたしたちはキリストの享受のさまざまな項目を見るだけでなく、神が彼の子供たちの間で定められた支配する原則を見ます。少なくとも三つの重要で決定的な支配する要因、あるいは原則があります。
神の臨在
第一の支配する原則は、雲の柱と火の柱の中の主の臨在です。これらの柱の中で、主の臨在は第一の支配する原則です。この要因は、主の民の集まり、また活動あるいは移動と関係があります。主の民がいつ、どのようにして、どこへ移動し、行動するべきかは、雲の柱の中で、また火の柱の中で彼らに啓示された主の臨在にかかっています。言い換えると、わたしたちは前進してその地を所有しようとするなら、主の臨在によってそうしなければなりません。主の臨在がわたしたちと共に行くなら、わたしたちはその地に入ってそれを享受することができます。主はモーセに、「わたしの臨在があなたと共に行って、わたしはあなたに安息を与える」(出33:14)と約束されました。これは、彼が民をご自身の臨在によってその地の所有へともたらすことを意味します。
「わたしの臨在があなたと共に行って」。これは実に特殊な言葉です。「臨在」が行きます。それは、「彼」が行くことを意味するのではありません。「彼が行く」のは一つの事であり、「彼の臨在が行く」のは別の事です。
兄弟姉妹、わたしたちは目に涙を浮かべながらも、日ごとに言わなければなりません、「主よ、あなたの微笑む臨在以外の何も、わたしを満足させません。わたしはあなたの栄光の御顔の微笑み以外の何も欲しくありません。わたしはこれを持つ限り、天が落ちて来ても地が裂けても気にしません。全世界がわたしに立ち向かってきても、あなたの笑顔がわたしの上にある限り、わたしはあなたを賛美することができ、すべては良いのです」。主は、「『わたしの臨在』があなたと共に行く」と言われました。何という宝でしょう! 主の臨在、微笑みが支配する原則です。わたしたちは主から何を受けても、彼の臨在を失うことを恐れなければなりません。これは実に恐ろしい事です。主ご自身はあなたに何かを大いに与えられるかもしれませんが、まさにその事があなたから彼の臨在を奪うでしょう。彼はあなたを助け、あなたを祝福されますが、まさにその助けと祝福が、あなたを彼の臨在から引き離すことがあり得るのです。わたしたちはただ主の臨在によって守られ、支配され、管理され、導かれることを学ばなければなりません。わたしたちは主に、彼の直接の臨在以外の何も欲しくないと告げなければなりません。わたしたちは間接の臨在を欲しくありません。多くの時、あなたは主の間接の臨在を持ち、それは直の、直接のものではないことをはっきりしてください。主の直接の、直の臨在によって支配されるように努めてください。
これは必要条件や資格だけではなく、あなたが前進してその地を所有するための力でもあります。主の直接の臨在は大能をもってあなたを強め、キリストの豊満、すべてを含むことを獲得させます。おお、主の直接の臨在の中に何という強さ、何という力があることでしょう! これは確かに教理の事柄ではなく、わたしたちの最も内なる経験の事柄です。
ウリムとトンミムのある祭司の体系
第二の支配する原則は、油塗りの下でのウリムとトンミムのある祭司の体系です。祭司の体系は主との交わり、そして主の臨在の中での生活と奉仕を含みます。祭司の体系は、主との絶えない交わりの中にいる一組の人たちです。彼らは継続的に主と交流し、主の臨在の中で奉仕します。彼らはこのように生活し、歩き、すべてを行ないます。わたしたちは主と交わりを持つとき、日ごと瞬間ごとに主と交流するとき、この生きた交わりの中で生活し、奉仕し、行動するとき、祭司の体系です。
もしわたしたちが祭司の体系を失うなら、支配する原則の一つを失います。この支配する原則は導きのためではなく、判断のためです。雲と火の柱の中の主の臨在は導きのためですが、油塗りの中にありウリムとトンミムのある祭司の体系は判断のためです。
祭司の体系は三つの事柄を含みます。すなわち、主との交流あるいは交わり、聖霊の油塗り、ウリムとトンミムです。わたしたちはここで最後の項目、ウリムとトンミムについて簡単に語ることができるだけです。ウリムはヘブル語で「光」を意味し、トンミムは「完全あるいは完成」を意味します。約三十年前、わたしはあるヘブル人の著者による記事を読みました。それは、トンミムはヘブル語アルファベットの四文字をその上に刻んだ宝石であると言っています。大祭司の胸当ての上には、イスラエルの十二部族の名が十二の石に刻まれていました。この十二部族の名はヘブル語アルファベットの二十二文字のうち十八だけを含んでいます。ですから、大祭司の胸当ての上には四文字が欠けています。しかしながら、この四つの文字はトンミムの上に刻まれており、この石が胸当てにはめ込まれるとき、完全があり、完成がありました。そして完全な二十二文字がありました。ヘブル語アルファベットのすべての文字がそこにありました。そしてウリムは、石胸当てにはめ込まれて光を放つと告げられています。ですから、ウリムとトンミムの意義があります。それは光と完全です。
イスラエルの子たちの間でいくつかの問題や疑問が起こったとき、大祭司はその事柄を主にもたらして、胸当ての助けによって答えを得ました。ヘブル人の著者がこの記事の中で言っているのは、大祭司が主の御前に行ったとき、胸当ての上にある石がそれぞれの文字をもって輝き、また他の時には他の石がそれぞれの文字をもって輝きました。大祭司はさまざまな石が輝いた時、そこからすべての文字を取り出し、こうすることで言葉を、そして文章を作りました。最後に、彼は主から完全なメッセージあるいは判断を受けました。
聖なる生活の規定
第三の支配する要因は聖なる生活の規定です。レビ記には、ささげ物、祭司の体系、多くの種類の規定があります。レビ記はこの三つの部分に分けることができます。第一は、ささげ物を扱っており、第1章から第7章です。第二は、祭司の体系を扱っており、第8章から第10章です。第三は、第11章から最後までであり、多くの規定を扱っています。聖なる生活、聖く生きることに関するあらゆる種類の規定があります。わたしたちはそれらすべてに関して今、詳細へと入って行くことはできません。もしできたなら、それらがいかに興味深く、いかに甘く、いかに意義深いものに富んでいるかを見るでしょう。何が清いか、何が清くないかについて、俗的でこの世的な事物から何が分離され、何が分離されていないかについて、どのように行動し、どのように行動しないかについて、多くの規定があります。これらはすべて聖なる生活のための規定です。
これらの規定は簡単に三つの小さな原則に要約されることができます。第一は、わたしたちが神に属する民であることです。これはわたしたちを規制しなければならない小さな原則です。あなたは主に属する者、主の民であることを覚えていてください。あなたはこれを覚えているなら、多くの事から守られます。
第二は、わたしたちがこの世から分離されていることです。主は、「わたしはあなたがたをもろもろの民から分離して」と言われました(レビ20:26)。わたしたちは主によってこの世の人々から分離されました。彼らが行なうことができることを、わたしたちはできません。
第三の小さな原則は、主は聖であるので、わたしたちも聖でなければならないということです。主は他のすべての事物から分離されて異なっているので、わたしたちもすべての事物から聖別されなければなりません。主が聖であるように、わたしたちはすべての事物において聖でなければなりません。
この三つの小さな原則は、大きな支配する原則の一つを構成し、これらは聖なる生活の規定です。それらは何でしょうか? 第一に、あなたが主の子供たちであるのを覚えていること、第二に、あなたがこの世から分離されているのを覚えていること、第三に、あなたの神は聖なる神であり、あなたも彼のように聖でなければならないのを覚えていることです。この三つの規定があなたの生活のすべてを支配するべきです。
結論として、主の臨在は一群れとしてのわたしたちに対する導きです。わたしたちは行くべきかとどまるべきか、主の臨在によって知ることができます。わたしたちは主の臨在以外の何によっても導かれてはなりません。これが第一の支配する原則です。次に、もしわたしたちの間にいくつかの問題があるなら、わたしたちは外側の方法でいかなる解決も捜す必要はありません。わたしたちには祭司の体系の法廷があります。わたしたちの間での主との交わりによって、聖霊の油塗りの下で、御言の光の中ですべての兄弟姉妹に対する愛をもって学ぶことを通して、わたしたちは必要とされる判断、正しい決定を得ることができます。これが第二の支配する原則です。わたしたちは日常生活と日常の行動について、自分が主の子供たちであること、この世から分離されていること、主が聖であるように、わたしたちも聖でなければならないことを覚えることによって、常に支配されなければなりません。これが第三の支配する原則です。わたしたちはこれらの原則によって支配されるなら、前進してその良き地を所有するように準備され、資格づけられるでしょう。わたしたちはすべてを含むキリストの中へと入ることができるでしょう。
(「すべてを含むキリスト」、第 11 章より抜粋)
JGW 日本福音書房の許可を得て掲載しております。
さらにお読みください:出エジプト33:14-15、14節のフットノート1.40:36-38、36節のフットノート1
出エ33章14-15節 エホバは言われた、「わたしの臨在があなたと共に行って、わたしはあなたに安息を与える」。モーセはエホバに言った、「もしあなたの臨在がわたしたちと共に行かれないなら、わたしたちをここから上らせないでください。
14節のフットノート1 【臨在についてのフットノート】文字どおりには、顔。12節から17節で、モーセは神と交渉し、神の臨在が彼と、また民と共に行くようにと求めました。神の臨在は彼の道、「地図」であり、彼の民が取るべき道を示します(参照、ヨハネ14:6とフットノート1.ヘブル11:8とフットノート)。イスラエルの子たちが神の臨在を持っていたのは、とても限られた方法においてでした。それは、彼らが神の心から遠く離れていたからです(参照、イザヤ29:13)。しかしながら、モーセは神の心にとても近い、神の心にしたがった人でした。ですから、彼は満ち満ちた程度にまで神の臨在を持っていました。
出エ40章36-38節 雲が幕屋の上から立ち上るときはいつも、イスラエルの子たちは出立した.彼らが行程にある間は常にそのようにした.しかし、雲が立ち上らなければ、それが立ち上る日まで彼らは出立しなかった。昼は幕屋の上にエホバの雲があり、夜は雲の中に火があって、イスラエルの全家の目に見えた.彼らが行程にある間、いつもそうであった。
36節のフットノート1 エホバの栄光の雲は、イスラエルの子たちの導き、案内となりました。ここの予表によれば、神の住まいから離れて、神の民に導きあるいは案内はありません。イスラエルの子たちは雲を伴う幕屋に従いました。同じように、わたしたちはクリスチャンの行程において、神の住まい(召会)を伴う神の行動に従わなければなりません。