断ち切り(διχοτομέω<dichotomeó>―マタイ24:51)
【回復訳】 彼を断ち切り、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこでは、泣き叫んだり歯がみしたりする。
【KG訳】 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
【SK訳】 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
【SKD訳】 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
ギリシャ語
καὶ διχοτομήσει αὐτὸν καὶ τὸ μέρος αὐτοῦ μετὰ τῶν ὑποκριτῶν θήσει· ἐκεῖ ἔσται ὁ κλαυθμὸς καὶ ὁ βρυγμὸς τῶν ὀδόντων.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
dichotomeó: to cut in two, cut asunder
Original Word: διχοτομέω
Part of Speech: Verb
Transliteration: dichotomeó
Phonetic Spelling: (dee-khot-om-eh'-o)
Definition: to cut in two, cut asunder
Usage: I cut in two, perhaps: scourge severely.
解説
『栄光のキリストから、彼の王国の栄光から、彼の王国にある彼の栄光の臨在から、断ち切られることを言っています。彼は王国の実現の時、忠信な奴隷たちが享受するキリストと王国の栄光に、あずかることができません(45節.25:21、23)。これは、45節から51節のこの区分の完結であるタラントのたとえ(25:14-30)の結びで、「外の暗やみに放り出」すことと一致します。』(マタイ24:51フットノート 1)
『これは、永遠に滅びることではなく、経綸上懲らしめられることです。ヘブル第12章28節のノート1を参照。』(マタイ24:51フットノート 2)
経綸上の懲らしめについて
新約聖書がわたしたちに宣べ伝えた福音は、王国の福音です(マタイ3:1-2.4:17、23.10:7.24:14)。わたしたちは王国へと再生され(ヨハネ3:5)、王国へと移されました(コロサイ1:13)。今やわたしたちは王国におり(啓1:9)、王国は今日、正常な召会生活です(ローマ14:17)。しかしながら、わたしたちが今いる所、また今日、召会にあるものは、その実際における王国であり、将来、キリストの再臨と共に来るものが、その実現における王国となります。
実際における王国、あるいは王国の実際は、今日の召会における、わたしたちに対する訓練、学びです(マタイ5:3、10、20.7:21)。実現における王国、あるいは王国の実現は、来たるべき時代の千年王国における、わたしたちに対する褒賞、享受です(マタイ16:27.25:21、23)。わたしたちが今日、王国の実際において、その霊の訓練と神の取り扱いを受け取るなら、来たるべき時代の王国の実現において、主の褒賞を受け、来たるべき安息日の安息の享受に入ります(4:9)。そうでないと、わたしたちは来たるべき王国に入り損ない、主の再来の時に王国の実現の褒賞を受けることはなく、王国の栄光に入って千年王国でキリストの支配にあずかる権利もなく、長子の権を失い、それゆえに、来たるべき時代に地を受け継ぐことができず、キリストの出現の栄光の中で、王なる祭司となって神とキリストに仕えることができず、キリストと共同の王となって、彼の神聖な権威をもってすべての諸国民を王として支配する(啓20:4、6)こともできません。来たるべき王国に入り損なうこと、わたしたちの長子の権を喪失することは、わたしたちが滅びることを意味するのではありません。それは、わたしたちが褒賞を失うことであって、救いを失うことではありません(参照、10:35のノート1)。わたしたちは損失を被りますが、火をくぐってきたようにではあっても救われます(Ⅰコリント3:14-15)。これは、本書の五つの警告すべての根拠となっている基本的観念であり、この警告を随所で見ることができます。これらの警告のあらゆる消極的な点は、来たるべき王国における褒賞を失うことと関係があります。すべての積極的な点は、王国の褒賞と享受と関係があります。啓示録第2章、第3章にある七つの手紙はすべて同じ観念、王国の褒賞、あるいはその損失で結んでいます。この観念をもってのみ、以下の言葉が正しく理解され、正当に適用されます。マタイ5:20.7:21-23.16:24-27.19:23-30.24:46-51.25:11-13、21、23、26-30.ルカ12:42-48.19:17、19、22-27.ローマ14:10、12.Ⅰコリント3:8、13-15.4:5.9:24-27.Ⅱコリント5:10.Ⅱテモテ4:7-8.ヘブル2:3.4:1、9、11.6:4-8.10:26-31、35-39.12:16-17、28-29.啓示録2:7、10-11、17、26-27.3:4-5、11-12、20.22:12。もしわたしたちにこの観念がないなら、これらの節の解釈は、カルビン派(Calvinist)の極端な客観論か、あるいはアルメニアン派(Arminian)の極端な主観論に陥るでしょう。これらの派はいずれも、王国の褒賞を無視しています。もちろん、彼らは王国の褒賞を失うことも見ていません。ですから、両派はいずれも、これらの節のあらゆる消極的な点を、滅びと考えています。カルビン派は、永遠の救い(すなわち、人がひとたび救われたなら決して滅びない)を信じているので、これらすべての消極的な点が、偽信者の滅びを指していると考えます。アルメニアン派は、救われた人がもし堕落したなら滅びると信じているので、これらの点が、救われた後、堕落してしまった信者の滅びを指していると考えます。しかし聖書の全体的な啓示は、これらの消極的な点が、王国の褒賞を失うことを言っていることを見せています。神の救いは永遠です。わたしたちがひとたびそれを得たなら、決して失うことはありません(ヨハネ10:28-29)。王国の褒賞を失う可能性はありますが、それでもなお救われます(Ⅰコリント3:8、14-15)。ヘブル人への手紙の警告は、永遠の救いを失うことを言っているのではなく、王国の褒賞を失うことを言っています。ヘブル人信者たちは王国を受けましたが、もし彼らが神の恵みから、神の新契約の道から後退してしまったなら、王国の実現における褒賞を失う危険性がありました。これが、ためらっていたヘブル人信者たちに警告した中での、著者の主要な関心でした。(ヘブル第12章28節ノート1)