知る[客観的な知識](γινώσκω<ginóskó>)
知る[主観的な意識](οἶδα<eidó(oida)>)―ヨハネ8:55
【回復訳】 ところが、あなたがたは彼を知らない.しかし、わたしは彼を知っている。もしわたしが彼を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同じように、うそつきになるであろう.しかし、わたしは彼を知っており、彼の言を守っている。
主だった日本語訳聖書は回復訳聖書と同じく「ginóskó」と「oida」を「知らない」、「知っている」などと訳し分けていません。しかし、回復訳聖書はフットノートにて二つの単語の違いを説明しています(下記の解説参照)。
ギリシャ語
καὶ οὐκ ἐγνώκατε αὐτόν, ἐγὼ δὲ οἶδα αὐτόν. κἂν εἴπω ὅτι οὐκ οἶδα αὐτόν, ἔσομαι ὅμοιος ὑμῖν ψεύστης· ἀλλὰ οἶδα αὐτὸν καὶ τὸν λόγον αὐτοῦ τηρῶ.(Nestle 1904)
Strong's Concordance
ginóskó: to come to know, recognize, perceive
Original Word: γινώσκω
Part of Speech: Verb
Transliteration: ginóskó
Phonetic Spelling: (ghin-oce'-ko)
Definition: to come to know, recognize, perceive
Usage: I am taking in knowledge, come to know, learn; aor: I ascertained, realized.
eidó: be aware, behold, consider, perceive
Original Word: οἶδα
Part of Speech: Verb
Transliteration: eidó
Phonetic Spelling: (i'-do)
Definition: be aware, behold, consider, perceive
Usage: I know, remember, appreciate.
解説
『この節では、二つのギリシャ語が、「知る」に対して用いられています。最初は外側の、客観的な知識を意味します。第二は内側の、主観的な意識のことを言います。主イエスはパリサイ人に、彼らは父なる神を、外側の客観的な知識においてさえ知っていないが、自分は御父を、内側の主観的な意識において知っている、と言われました。』(ヨハネ8:55フットノート1)