栄光に欠けており(ὑστεροῦνται τῆς δόξης<hysterountai tēs doxēs>)―ローマ3:23
【回復訳】 ローマ3:23 なぜなら、すべての人は罪を犯したので、神の栄光に欠けており、
その他の翻訳は「hysterountai tēs doxēs」を「栄光を受けられなくなって」「栄光〔を受けるの〕に不十分」「栄誉を受けることができず」「(かつて持っていた)神の栄光をもたない」などと訳しています。前田訳は「栄光を欠いて」と訳しています。日本語訳聖書の比較はこちらのサイトから参照いただけます。
ギリシャ語
πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστεροῦνται τῆς δόξης τοῦ Θεοῦ,(Nestle 1904)
Strong's Concordance
hustereó: to come late, be behind, come short
Original Word: ὑστερέω
Part of Speech: Verb
Transliteration: hustereó
Phonetic Spelling: (hoos-ter-eh'-o)
Definition: to come late, be behind, come short
Usage: I fall behind, am lacking, fall short, suffer need, am inferior to.
Strong's Concordance
doxa: opinion (always good in N.T.), hence praise, honor, glory
Original Word: δόξα, ης, ἡ
Part of Speech: Noun, Feminine
Transliteration: doxa
Phonetic Spelling: (dox'-ah)
Definition: opinion (always good in NT), praise, honor, glory
Usage: honor, renown; glory, an especially divine quality, the unspoken manifestation of God, splendor.
解説
『神の栄光とは、表現された神です。神が表現される時はいつも、神の栄光が見られます。人は神によって、神のかたちに造られました。それは人が、神の栄光のために、神を表現するためです。しかし人は罪を犯して、神の聖と義に相反しました。人は神を表現するどころか、罪と罪深い自己を表現します。ですから、人は神の栄光に欠けています。神の栄光と表現に欠けていることが罪です。罪人は、神の聖と義の要求の下にあるだけでなく、神の栄光の要求の下にもあります。すべての人は神の聖であることに違犯し、神の義の律法を破り、すべて神の栄光に欠けています。ですから、すべての人は神の罪定めの下にあります。』(回復訳聖書 ローマ3:23フットノート1)
補足
神の義なる律法と神の栄光の要求に応じる
神の義が現されたのは、彼の義なる律法と彼の栄光の要求に応じるためでした(3:23)。わたしたちは主イエスを信じる時、神のすべての要求に応じる神の義を受けます。ローマ人への手紙第3章で、神の要求は二つの種類、彼の義と彼の栄光の要求から成っていることを見いだします。パウロははっきりと、神の律法と神の栄光を述べています。わたしたちはみな律法を破り、みな栄光に欠けました。ですから、第3章23節は、すべての人は罪を犯したので、神の栄光に欠けていると言っています。
パウロはなぜ突然、神の栄光を述べるのでしょうか? その答えは、25節に述べられているなだめのおおいと関係があります。パウロはローマ人への手紙のこの部分を書いていた時、おそらく証しの箱の絵、特になだめのおおいを思いの中に持っていたのでしょう。このおおいの上には栄光のケルビムがありました。すでに指摘したように、おおいの下には人々の罪を暴露し、彼らを罪定めする律法があり、おおいの上には神の栄光を代表し、人々のあらゆる行動を観察するこつのケルビムがありました。おおいの下には暴露する律法があり、おおいの上には見つめ、観察するケルビムがありました。暴露し、罪定めする律法は、律法にしたがった神の義の要求を表徴し、観察するケルビムは、神の表現にしたがった神の栄光の要求を表徴しました。これらの要求が満たされ、神が満足されるまでは、罪人が神に触れ、神が彼らと交流する道はありませんでした。ハレルヤ、償う血! 償う血がなだめのおおいの上に振りかけられ、義なる律法と神の栄光の要求に応じました。
なだめは単なる行為ではなく、場所でもあります。なだめは、神が人と会うことができる場所です。聖霊の感動の下で、パウロは大胆に、このなだめの場所はイエス・キリストであると言いました。神はキリスト・イエスをなだめの場所として設定され(3:25)、このなだめのおおいは、神が人と会うことができるなだめの場所です。この場所は、主なるイエス・キリストのパースンです。多くのクリスチャンは主イエスを愛し、彼が彼らにとって大いなるものであることを認識していますが、キリストは、神がわたしたちと会うことができ、わたしたちが神に触れることができるなだめの場所であることを、知らないかもしれません。わたしたちはこの場所を知る前、神に近づくことを思う時、おびえましたが、今はもはや彼を恐れません。なだめのおおいとしてのキリストの上で、わたしたちは神と会うことができるのです。これが、ローマ人への手紙第3章でパウロが書いていることの意義です。彼は契約の箱とそのおおいの予表を用いて、義認の意義を見せたのです。
この宇宙で、主イエスはなだめの場所として設定されたので、すべての罪人は来て、彼の上で神に会うことができます。わたしたちは今日、どこにいるのでしょうか? なだめの場所にいるのです。わたしたちは神と会う地位、立場を持っており、神はわたしたちと交流する同じ立場を持っておられます。律法はどこにあるのでしょうか?律法はなだめのおおいの下です。それはなだめるキリストによって覆われています。神の栄光はどこにあるのでしょうか? それはわたしたちの上にあり、しかも、わたしたちに対して何の要求もありません。なぜなら、わたしたちはなだめの場所としてのキリストの上にいるからです。ここで、わたしたちは義とされます。このなだめのおおいの上で、わたしたちは義における神と同じです。わたしたちと神は互いに答え合い、相互に是認し合います。わたしたちは神を是認し、神はわたしたちを是認されます。神はわたしたちを義とされ、わたしたちは彼を義とします。
わたしたちが神を義とすることができると言うのはあまりに大胆であると、あなたは思うでしょうか? 第3章4節は、それを言う根拠をわたしたちに与えます。この節は、神は彼の言葉において義と言い表され、裁かれるとき勝利を得られると言っています。わたしたちは神を義とすることができます。わたしはこれを何度も行ないました。わたしは自分が罪人であることを認めましたが、盲目的に神に従うことはしませんでした。わたしは最善を尽くして神の言葉を確かめようとしました。最終的に、神は正しいと、神を完全に是認しました。神について研究し、少し神を調べて、神が正しいかどうかを確かめることを恐れてはなりません。あなたが彼を調べるなら、彼は千パーセント、百万パーセントも正しいことがわかるでしょう。あなたは神を義とするでしょう。なだめのおおいとしてのキリストの上で、神とわたしたちは互いに是認し合います。
わたしたちの経験によれば、神がまずわたしたちを是認されたのではなく、わたしたちがまず神を是認しました。神がどれほどの時間を費やして、彼の義をわたしたちに納得させられたか、わかりません。わたしたちは反逆的であって、「神は嫌いだ。神は正しくない」と言いました。わたしたちは救われる前、みなこのように思いました。多くの人は神に言い逆らい、「神が正しいなら、なぜこの世に多くの貧しい人がいるのか? 神が正しいなら、なぜ諸国民の間に正義がないのか?」と言いました。彼らは神がおられることを認めますが、神は義ではないと主張します。わたしたちの多くは同じことを証しし、神は間違っている、神は義ではないと考えたと告白することができます。しかしながら、神はわたしたちに忍耐強くあって、最終的に彼の義を納得させるまで、わたしたちのために多くの事を行なわれました。まずだれがだれを義としたのでしょうか? わたしたちがまず神を義としたのです。わたしたちは神によって彼の義であることを納得させられた時、神を義とし、悔い改めて泣いて、「神よ、赦してください。わたしはとても罪深い汚れたものです。わたしはあなたの赦しを必要とします」と言いました。わたしたちが主イエスの御名を呼んだ時、キリストの中へだけでなく、キリストの上に置かれました。今やわたしたちは、わたしたちのなだめの場所としてのキリストの上におり、そこで神とわたしたちは互いに義とすることができます。わたしたちは、「神よ、あなたは義です。わたしはあなたに何の問題もありません」と宣言します。すると神は、「愛する子よ、わたしもあなたに何の問題もない」と答えられます。まず、わたしたちが神を是認し、次に神がわたしたちを是認されました。わたしたちが神を義とし、次に神がわたしたちを義とされました。このすべては、なだめの場所としてのキリストの上で起こりました。彼の下では律法が覆われており、彼の上ではケルビムが、なだめのおおいとしての彼の上での相互の義認を見て喜びます。
わたしたちは今、どこにいるのでしょうか? なだめの場所としてのイエス・キリストの上にいます。わたしたちはなだめのおおいの上にいます。律法はわたしたちの足の下にあり、神の栄光はわたしたちの頭上で満たされています。律法は沈黙させられました。それはもはや、わたしたちに敵対して語ることはできません。しかし、神の栄光は満足をもって、わたしたちの上で歓喜することができます。なだめのおおいの上で、わたしたちは神の全き義認を事受します。
(新約ライフスタディ ローマ人への手紙 第五編「神の道における義認」より抜粋)