聖書を読むことを助けるいくつかの解釈【聖書の中の予表】
旧約において神は予表を絵として用いて、新約において啓示されようとする真理を描写しています。これは、幼稚園の先生が絵を用いて子供たちに教えるのと似ています。人々、事物、出来事、儀式を合めて、多くの予表の分類があります。
アダムは予表としての一人の人の例証である
ローマ5:14 しかし、アダムからモーセに至るまで、アダムの違反の様で罪を犯さなかった者をも、死が王として支配しました.アダムは来たるべき方の予表です。
新創造のかしらであるキリストは、アダムによって予表されています(ローマ5:14)。
宮の中の幕は予表としての事物の例証である
ヘブル10:20 それは、彼がわたしたちのために、彼の肉体である幕を通して、一つの新しい生きた道を開設してくださったからです.
宮の幕は、聖所と至聖所を分離し、人が至聖所の中におられる神に近づくことができないようにしましたが、それはキリストの肉体の予表です。しかしながら、その幕が裂かれた後、人は神の御前に来ることができました。主イエスの体が十字架上で裂かれた時、罪人が神に近づくための一つの新しい生きた道が開かれました(ヘブル10:20)。十字架上の彼の死は、わたしたちが直接神に来ることができるようにします。
イスラエルの子たちがエジプトを出たことは、予表としての出来事の例証である
Iコリント10:1-10 というのは、兄弟たちよ、わたしはあなたがたに知らずにいてもらいたくないのです.わたしたちの父祖たちはみな雲の下にあり、みな海を通り、そしてみな雲の中で、また海の中で、モーセへとバプテスマされました.そして、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲みました.すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです.そしてその岩はキリストです。ところが神は、彼らの大部分を喜ばれませんでした.なぜなら、彼らは荒野でまき散らされたからです。さて、これらの事柄が起こったのは、わたしたちへの一種の予表としてです.それは、彼らが欲望にかられたように、わたしたちが邪悪な事柄で、欲望にかられる者とならないためです。また彼らのある者のように、偶像を拝む者となってはいけません.「民は座して食べ飲みし、立って戯れた」と書かれているとおりです。また彼らのある者が淫行を行なって、一日のうちに二万三千人が倒れたように、わたしたちは淫行を行なってはいけません。また彼らのある者が試みて、蛇によって殺されたように、わたしたちはキリストを試みてはいけません。また彼らのある者がつぶやいて、滅ぼす者によって滅ぼされたように、つぶやいてはいけません。
神の救いが現される前、神はイスラエルの子たちがエジプトを出るという出来事を通して彼の救いを予表しました(Iコリント10:1-11)。
過越は、予表としての儀式の例証である
Iコリント5:7 あなたがたは新しい練り粉のかたまりとなるために、古いパン種を一掃しなさい.あなたがたは確かに、パン種のない者です.というのは、わたしたちの過越であるキリストが、犠牲としてささげられたからです。
旧約における過越は、キリストの死の予表、生き生きとした絵です。神はこの儀式を用いて、新約におけるキリストの死を示しています(Iコリント5:7)。